伊予の戦女神
□蠱惑の薫り
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重盛は生き返ったと、源氏武者達の脳は思い込んでしまったのだ。
…普通に有り得ない事なのにな。
そして、一応僕は九郎殿(源氏の大将殿)に近い立ち位置にいるから、本当に還内府が参戦しているなら早めに僕の耳にも入るはずなんだが
「(…やられたな。平家の誰かが噂して回っている可能性がある)」
最も、平家の統率力を見るかぎり還内府参戦は嘘ではないだろう。
しかしこちらの勝機は揺らがない。
「宇鷺殿どうかしましたか?」
「ああ、弁慶殿」
深く思案に耽っていたせいか無意識のうちに力んでいた肩から力を抜き、此方に向かってきた弁慶殿を見る。やれやれと腰に手を当ててため息を吐いた。
「還内府の話、聞いた?」
「ええ。至る所で噂が持ちきりでしたね。やはり、還内府の名の影響は大きい」
女顔負けの秀麗な顔が、悩ましげに歪む。弁慶殿が溜め息を吐くくらい目の上のたんこぶは大きいようだ。
だが僕はどうしてもそれが腑に落ちずに眉根を寄せる。
「(弁慶殿は一体何を恐れているのか僕には理解出来ないな。源氏の敵は平家であって還内府じゃない。何故一人に固執するのか。………それに、)」
宇鷺は視線を地に落とす。
「(源氏の兵数、軍力、後ろ楯だって平家となんら劣るものはない。あちらに還内府という知将がいるなら源氏には武蔵坊弁慶と源頼朝の弟・源九郎義経がいるってのに何が不安なんだ。戦況は互角…それどころか源氏が優位な立場にいるのに。……僕なんて―――――)」
ぐっと唇を噛んだ。
血飛沫を見ると、
銀の鎧を見ると、
家紋入りの旗を見ると、
血濡れた武器を見ると、
立ち込める硝煙の臭いを嗅ぐと、
悲鳴を聞くと、
思い出すんだ。
あの、ピリピリとした肌を刺す殺気が今でも忘れられない。
カンッ!カンッ!
『頭領ォ!頭領ォオ!』
『チッ…なんだい!』
キィイイン!
目の前の刃を跳ね除けて一太刀奮った。今まで息をしていたモノが崩れ落ちて動かなくなる。
引き裂かれた肉塊から吹き出た血が頬についた。焔が野を焼く臭いがする。肉の塊が地に転がっている。誰かの断末魔が聞こえる。
戦場に、自分はいる。
戦というのは想像以上に残酷で惨いと、鈍った脳で何となく頭に刻んだ。初陣にしては妙な高揚感はなく、ただ淡々と敵を殺す。何の罪悪も感じない。
それは、自分に守るべき者がいるから。
キィン!
『ふ…ッ何だ、早く言え伝令!』
『おっ大殿……ッ河野通清様が栗井坂にて討ち死にしまして候!』
『な…っ!』
目を見開く。
伝令の言葉を聞いた瞬間、世界の色が失われた。
父上が…死んだ?
『…そだ………』
キン!
『おい松!ボケッとしてんじゃねーよ死にてえのか!』
ボンヤリと突っ立っていた僕は自身に振りかかってきた刃さえ気付けず、頼冬に庇われて初めて気が付いた。頼冬の怒号さえ遠くに聞こえる。
僕の顔を見た頼冬は舌打ちをした。
『…ッオイ!俺の親父はどうした!』
『っ高縄城にて通清様と合流したのちに栗井坂にて決戦を仕掛けましたところ清長様、通清様、御両名共に討ち死に!国と大島は…平家に堕ちまして候!』
『何だって!?…チッくそ親父!』
『…だ………そだ……』
討ち死に?ふざけるな。
『っ嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ!認めない…僕は認めないよ!父上が死んだなんて……っ』
『松……!』
がむしゃらに刀を奮った。
敵と思われる者は全て殺した。
目の前が赤くなった。
だって、嘘。
守るべき者がいなくなったら、僕はどうすればいいのかわからない。何を糧にして生きていけば良いのか、わからない。
喪失感と絶望感にうちひしがれた、初陣の記憶。
―――――ゾクリ
「…………っ」
「どうしたんですか、宇鷺殿。顔色が…」
「なんでもない。少し感傷に浸っていただけ」
心配する弁慶殿の声を遮り、総毛立つ肌を紫の衣で隠して上から押さえつけるように腕を掴んだ。少しでも力を緩めてしまったら、蘇ってきそうだったから
――――憤怒に駆られた獰猛な獣の咆哮が
唾をゆっくり嚥下すると、宇鷺は自嘲染みた笑みを浮かべた。