伊予の戦女神
□混濁の聲
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「…あ〜あ、とうとう六波羅に戻ってきてしまった。折角道中で茶屋に寄ったり、わざわざ仁和寺まで行って御室桜を眺望してきたり、北野天満宮に行ってかの有名な二千本もの梅の木を見に行ったりして随分時間稼ぎをしたというのに、結局はここに戻る運命か……」
分かっていてがっかりと項垂れ、あからさまに落胆の溜め息を吐いた。
必要以上に六波羅に長居したくなくて沢山道草してきたんだけど、ヒノエの隠れ家が六波羅にある以上僕がどう足掻こうとここに帰るしかない。京で宿をとってもよかったが、それではお忍びの意味がなくて虚しい思いをした。金はあるのに泊まれないなんて…。
「(さっさと帰ろう…)」
覚悟を決めて六波羅を駆ける。
なぜ走る必要があるのか。それは
「ようネエちゃん、誰か探してンのかい?」
「………っ!?」
「一緒に探してやるからこっち来いよ。遠慮するなって、ほらほら」
「いっ、いいってば!やめてよ!!」
…厄介な事に巻き込まれない為だったんだけれど。
予想通りの展開に、額に手をあてて再度溜め息を吐いた。治安が悪いにも程があるだろう。こんな真っ昼間からちょうど平家の屋敷が在った場所で、あんなに派手にチンピラが女性に絡むなんて。
しかも他の通行人なんざ目を反らして他人のふりをするどころか、ニヤニヤしながら事の成り行きを見てるっていうんだから質が悪い。
「(あーあ、誰か助けておやりよ…)」
「おらっ!」
「きゃっ…」
…と、僕が考えている間にもチンピラの汚らしい手が可憐な少女に乱暴に触れる。
誰も助ける様子がないし、流石に助けてあげなきゃ可哀想か。
「お前ら……」
「――おい、てめえ。なめた真似をするんじゃねぇよ」
「げっ、おめえは!?」
「(…おや)」
すでに一歩前に踏み出していたが、事態が変化したのでそこで踏み止まった。僕にとってはすごく馴染みある人物の登場に、チンピラの一人が顔を蒼白させて少女から身を離す。
灼熱の赤髪の彼は、解放された少女を素早く背に隠すと不敵に微笑んだ。
「目障りなんだよね、そういうの。街の空気が汚なくなる。簀巻きにして重石をつけて、鴨川にほおり込んでやってもいいけど
――面倒だ、さっさと失せな」
「ちっ、まずいところに」
「なめやがって…っ!」
二人のうち一人はこの場から離脱しようと背を向けたのだが、愚かにも彼の戯言に逆上したもう一人は大きく拳を振り上げた。
その瞬間、僕は音も無く地を蹴った。
「ふざけんなこのガキ―――!」
パシッ!
掌にぬるい衝撃が伝わる。
「!?」
「悪いんだけどさ、僕の可愛い弟分に手ぇ出すんじゃないよ」
「いででででっ!!」
チンピラの背中越しに振り上げたその太い手首を掴むと、そのまま強く上に捻りあげた。絞り雑巾のように彼の腕を締め上げる。チンピラは悲痛な叫び声をあげて必死で僕の手を振りほどこうともがいたが、そう簡単に離してあげる気はないので腕が千切れない程度に力を加減した。
醜い顔が拍車をかけて醜くなってくチンピラの耳元に唇を近づけて、こう囁いた。
「…誰だか知らないけど、あまり僕を怒らせないでね」
「ひっ」
「僕はヒノエと違って鴨川に沈めると言ったら本当に沈めるような人間なんだ。情けという言葉が苦手でね…僕が情けをかけるのは死にかけにとどめを刺してあげる時くらいかなあ」
「ご、ごめんなさ……」
「次会ったら空気の代わりに汚ねえ溝水をたらふく飲ませてやるよ」
ヒノエに『殺戮(物理)の微笑み』と命名された微笑みでにっこり笑った。
「す、すみませんでしたぁ!!!」僕の手から解放されたチンピラは涙ぐみながら、まるで質の悪い怨霊に遭遇してしまったような勢いで姿を消した。人間ってあんなに早く走れるんだなあと感心する。
「おいおいやりすぎだろ。安易に心の傷作ってやるなよ」
「やあヒノエ。さっきはカッコ良かったよ」
「…今のはお前に褒められても嬉しくねえよ」
肩を竦めてげんなりした顔でそう言うヒノエに僕は首を傾げた。
「そんな顔されるとまるで僕が悪いことをしたみたいじゃないか」
「はー。ほんと顔に似合わず恐ろしいやつだよな…」
「それはよかった。予想外の方が面白いだろう?」
「その面白さは誰も求めてないと思うけどね」
「あ、の…っ!」
「ん?」「あ…」
お互い顔を見合わせてた僕とヒノエは、第三者の声にぱちりと目を瞬かせて声がした方向を向く。
しまった、と隣から小さな囁きが聞こえた。
「俺としたことがこんなにも麗しい姫様を放置するなんて、とんだ失態だ」
「あ、そんな気にしないでヒノエくん!」
肩を落とし落胆(している素振りを)するヒノエに少女は慌てて白魚のような手をブンブン振る。
僕は僅かな違和感に密かに眉を寄せた。
初対面の筈なんだが、何故ヒノエの名を…?横目でヒノエを盗み見るとあいつは僕と違い、さして驚いているような表情もせずに少女を見つめている。
「へぇ、この名前を言い当てるなんてね。予想外だったよ神子姫様」
「(神子姫…彼女が?)」
不意に明かされた少女の正体に、目を丸くして彼女を見た。
腰まである艶やかな紅色の髪がよく映える白い肌、細い手足に細い括れ、華美過ぎず地味過ぎない清楚な出で立ち…ぱっと見た感じだと確かに姫っぽくも見えるし、神秘的な気配からは神子と言われても納得は出来る。
…腰にある刀が、神子姫という確証を少し鈍らせるが。
言われてみれば彼女はこの世にはない異質な空気を纏っていた。
「あのねヒノエくん、私あなたに会いに来たんだよ」
「へえ、だったら心が通じたってことだね。実はオレもあんたに会いたかったんだよ」
お目にかかれて光栄だよ、と女性限定のとろけるような微笑みでヒノエは神子に笑いかける。僕は顔をしかめる。ぽぽっと頬を染める神子だったけど、何か大事な用件があるのか頭を振って真剣な目付きになった。
「私のこと見張ってたの?私が源平にどんな影響を与えるか知るために」
齢二十にも満たない少女が、そう言った。
世の中の汚ないものを知らなさそうな無垢で無知な少女が、それはそれは真っ直ぐな眼差しで。
「………ぷっ」
思わず声を漏らして吹き出した。
僕よりも年下であどけない面差しの女の子が、すでに"神子"という価値を理解して言っている?
確かに怨霊を作り出す平家にとって神子というものは目の前のたんこぶ以外の何者でもないし、何度倒しても倒れぬ怨霊が脅威でしかない源氏には喉から手が出るほど欲しい稀少な存在だ。
だがまさか神子自身がその事実を知っていて、口に出すなんて。
予想外で面白い。
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