伊予の戦女神

□桜来、往来
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一陣の風が吹いた。



「……と」



風に煽られてはためく外套を緩く押さえて、弁慶は静謐な空を仰いだ。

少し強めの風に遊ばれている無数の桜の花弁は、空を覆い尽くしてしまうんじゃないかと心配になるくらい、真っ青な色を桃色へと染めていった。



「ふふ、独り占めしてしまうのは勿体ないくらいですね」



鮮やかな色彩に目を奪われながら、ゆっくりと歩んでいく。

闇雲に歩いていても確かに美しい桜を楽しめるが、弁慶の足はこの下鴨神社の神木へと向かっていた。

下鴨神社には昔から他に並んでいる木々とは比べものにならない程、悠然と構える幹の太い聖なる巨木があった。桜並木も美しいが、あの神木には敵わない。大昔からこの神社に根付き、長い年月この地の人々を見守ってきた神木は樹齢を重ねて尚逞しく育ち、参拝者に生命の力強さを説くかの如く精悍な雰囲気を纏っていた。そんな木に無数に咲き誇る桜のなんと清浄で美しいことか。

その神木の立派な花盛る枝が目に入った瞬間、同時に根元に立っている金髪の女性を見つけて弁慶は微かに瞠目した。



「………っ!」



一瞬だけ世界から音が消えたような気がした。

白い絹のようになめらかな肌に憂う深緑の双眸は満開の桜を見つめ、眉間に皺を寄せて唇をきゅっと噛み締める彼女の、思い詰めたような切なそうな横顔。風がそよぎ後ろに舞う金の髪は鮮やかに波打ち、音もなく花弁と絡み合う。

神木に掌を添えた儚げな彼女は、この空間には異質なほど清らかで神々しかった。

――――まるで女神のようだった。

地面に影を縫い付けられてしまったかのように、両足が動かない。今神木の元へ行こうものなら彼女を穢してしまいそう…そんな錯覚にまで陥った。白龍の神子である望美さんも清らかな気を持った女性だと思っていたが、彼女はまた違う清らかさがあるように思える。

彼女を見ていると胸が締め付けられる。

どうしてかは…わからないけれど。

不用意に近付くことが躊躇われ遠目から目を注いでいると、人の気配に気がついたのか黄金(きん)の女神がこちらを振り返った。澄んだ深緑の瞳が潤んでいるように見えた。

交差した二人の眼差しに、ドクンと心臓が鈍く跳ねる。咄嗟に言葉が出てこない。



「あなたは…」

「君も桜に誘われて来たのかい?」



そう言ってふっと微笑んだ彼女の目に涙はもうなかった。



「(気のせい…だったのでしょうか)」

「ねぇ桜来の宮。此処の神木に花咲く桜はきっと千本の桜にも勝る美しさがあると思わないかい?毅然としてこの地に根を張り、長き間京を見守ってきた年月がそう思わせるのかな」

「…………」

「桜来の宮?」



彼女が僕を見て不思議そうに首を傾げながら、再び「桜来の宮」と唇を動かしているのを見て、彼女が呼んでいた"桜来の宮"というのは自分の事だったのだと他人事のように理解した。白魚のような指が手招くままに彼女がいる神木の元へと近寄る。

彼女の隣に立った時、ふわりと桜の香りに混ざって爽やかな別の花の香りが鼻孔をくすぐった。

彼女の香の香りだろうか。どこかで嗅いだことがあるような気がするが、それを考えている余裕はなかった。女神の隣で女神と同じものを眺めている…それだけで胸が高鳴った。



「桜に酔ったみたいな顔をしているね、桜来の宮」



僕の顔を覗き見て彼女はクスクスと笑った。

何て綺麗な顔をして笑うのだろう。



「…ええ、こんなにも綺麗な桜を目の前にしては、どんな男でも忽(たちま)ち虜になってしまいますよ」

「はははっ道理だ。事実僕もそうだからね」

「僕?」



彼女の口から零れた一人称に違和感を感じて復唱する。そこで初めて気が付いた。

隣に立つ女神のように見えた人はよく見れば男の出で立ちをしており、下は女性が身に付ける長袴ではなく男用の薄鈍の袴を着用していた。



「貴方は男だったのですか?」

「あれ、気付かなかったのかい」



キョトンとして僕を見つめる彼女…否、彼に思わず苦笑を漏らさざるをえなかった。

あまりに綺麗な容姿だったし、髪を結っていないからてっきり女性だとばかり思っていた。



「わかっているもんだとばかり思ってたよ」

「すみません、女性のように美しい面持ちでしたので」

「あーそれは桜の魅せた幻かもねぇ。気を付けなよ桜来の宮」



手櫛で髪をとかしながら金髪の彼は爽やかに笑った。

女性でないと分かった瞬間急に彼が人間に見えてきて、配慮して少し距離を置いていたが気兼ねなく詰める。また桜以外の花の香りがしたけれど、どうしても花の名前は思い出せなかった。



「その桜来の宮ってやめてくれませんか?僕はそういった呼ばれ方は馴れてないんです」

「んー…?まあ考えておくよ」

「可能なら今すぐに改めてほしいのですが…」



酷い御方ですね、と溜め息を吐けば彼は僕の動作をさもわざとらしいと言わんばかりの顔で笑った。笑っている顔を見ているとやっぱり女性にしか見えなくて少し顔を反らす。

なんだ?この胸のざわめきは…。

桜の花弁が頬を撫でるように掠り落ちていった。






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桜の花弁が頬を撫でるように掠り落ちていった。

僕は金髪に絡みついた花弁をそっと摘まみ、優しく空へ返す。

それにしても、初対面の人に女性と間違えられるなんて思ってもみなかった。髪を結っていないせいもあるんだろうけれど、一体何が彼にそう思わせたのか。



「…………」



心当たりを探ってみるけど、答えが出なくて頭(かぶり)を振った。僕の性別なんてどうでも良いことなのだ。男であろうが女であろうが、僕の定められた運命は変わらない。

天に刻まれた星の行く末は、誰にも変えられない。



「さて、そろそろ僕は帰るとするよ。連れが待ち惚けしている頃合いだからね」



ボロを出してしまう前にさっさと退散しよう。そう思って桜来の宮を見ると、彼はえ…と小さく声を洩らした。僕との別れを惜しんでくれてるのかな、と思ったら少しだけ嬉しくなる。

今思えば桜来の宮、なんてよく名付けたものだ。

彼が桜吹雪の中に現れたから単純にそう呼んでみただけなのだが、意外と似合っているんじゃないかと思う。そもそも彼こそ女人みたいだし。一目見た瞬間はそう思ったが、黒い外套を羽織る女性なんて尼僧でもいないから男だと気付けたものの。



「(危うく桜来の君と呼ぶところだったよ…)」



そんな女性のような端整な顔を桜来の宮は切なく歪める。



「もう行ってしまわれるのですか。貴方との出逢いは、まるで桜が見せた泡沫の夢のようですね」

「そんなことはないさ」



胸元から髪紐を取り出し、桜を見つめたまま手早く髪を結っていく。



「一度結ばれた縁(えにし)は一生解けない。袖振り合うも多生の縁って言うじゃないか。結ばれた縁は想いの強さ次第で、また引き寄せられるさ」

「………」

「何度でも、命在る限り…廻り逢う」



どれだけ遠く離れた場所に居ようと、この大地は繋がっている。会おうと思えばどれだけ時間がかかっても必ず会えるように運命は仕組まれている。



「って僕は思っているよ。だからまた逢えるさ」



三つ編みの仕上げに朱塗りの髪止めをきゅっと締めてニッと笑う。

宮は口許に人差し指をあてて感慨深げに栗色の瞳を揺らすと、やがてふっと朗らかな笑みを浮かべた。



「"縁は一生解けない"ですか…そうかもしれませんね。人と人は案外絶えず縁で繋がっているのかもしれない。それこそ木の根のように、複雑に」

「頑張れば縁のみの全国統一も夢じゃないかもね」

「ふふ、それは流石に無理だと思いますよ」

「えー僕やってみたいなぁ」



夢は大きくないとね!と拳を握って力説すると宮が楽しそうに笑いだしたから、ついまじまじと彼の顔を見つめる。



「(へえ……)」

「ふふふっ……、どうかしましたか?僕の顔をそんなに見つめて」

「宮ってそういう顔もするんだなって思ってさ」

「…?」

「初めて見たときに何だか気難しそうな顔をしてたから、笑わない人なのかと思ってたよ。綺麗な顔なのに勿体ない」



僕の言葉に桜来の宮ははっと息を飲んだ。その反応をみて僕もしまった、と苦汁を喫した気分になる。知らず彼の何かに触れてしまったようだが、他人に深入りすると後々面倒だから早々にこの場を脱した方がよさそうだ。

彼の変化に気付かないふりをして、最後に彼の両頬をぐにっと上につねる。



「ちょっ」

「君には笑顔がよく似合う。君の桜にも劣らぬ優しい笑顔は、きっと周りの人も救われているはずだよ」



サァアアアと桜が風に揺れざわめく。

宮は眉を曇らせて何か言いたそうに口を開きかけたが、僕はそれを遮るように頬から手を離しくるりと踵を返した。



「じゃあね桜来の宮!」

「っ待って下さい。まだ――――!」

「次会うときは」



遠ざかる僕に向かって夢から覚めたような顔で宮は手を伸ばしでいた。

僕はその手から逃れるように走る。



「今度は酒でも酌み交わしながらゆっくりお喋りしたいもんだね」



もう小さくて聞き取ることができない宮の声に向かって大きく手を振った。

舞い風に桃色の欠片が僕の視界を奪う。

宮の姿が見えなくなってしまったけど、僕は確証のない自信に溢れていた。


宮とはまた逢える。
きっと、近いうちに―――。



桜はひらりはらりと空を踊る



*終幕*

その勘がすぐに当たることを、宇鷺は知らない。



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