伊予の戦女神

□勝浦の日蔭人
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酒の感想を口にしてから、ヒノエは何も言わずに欄干に腕をのせて月を見ていた。この時期のこの刻限は、今ヒノエが座っている位置から黄金の月が美しく見える。男も昨晩は同じ場所で月を見ながら酒を飲んでいたからよく覚えている。

今宵も来客がなければ同じ場所に座っていた筈だった。

星空を仰ぐ彼の表情はこちらからは見えない。男は特にかける言葉がなかったので、手元の煙管を撫でたりトントン突いたりして無言の時間を過ごす。一人で過ごす静かな夜は何度も経験したが、二人で過ごす静かな夜は初めてだった。人差し指の衝動に合わせて、煙管の紫煙がゆらゆらと軌道を変えるのを無感情に見つめる。

やがて一人遊びに飽きた男は、小さく息を吐いて口を開いた。



「で、今日は何が目的でここに来たんだい」



静かな室内に、男の声はよく通る。ヒノエはやっと顔だけをこちらに向けて男と対話する意思を示した。



「目的は何だと思う?」

「質問を質問で返すなんて礼儀がなってないね」



長い睫毛に縁取られた深い深緑の瞳に見つめられて、ヒノエはわざとらしく肩を竦める。

春とはいえ夜は気温が低く肌寒さを感じたのか、ヒノエは質問に答える前に男の衣架(いか)から勝手に縹の衣を拝借して、肩に羽織って同じ場所に座り直した。男はいつもの事なのか気にする様子もなく、煙管をくわえる。ただ待つのは苦手なので、視線だけはヒノエを外さない。

少し間をあけてヒノエは口を開いた。



「俺と一緒に京に行かないか」



自分とは無縁な地名の名前が不意に出てきて、男は微かに瞠目する。何でまた京なんかに…と思ったが、男はひとつだけ心当たりがあって開きかけた口を閉ざした。視線で訴えると、彼は月明かりに照らされた綺麗な顔で微笑んだ。



「そろそろ京の動きが気になる。平家追討令が出て以来、源氏が元気に平家を追ってはいるがいまだ平家の勢力は衰えない。熊野も今は中立を保っているが、状況なんざ波紋の如く変化が激しい…いつもは烏たちに頼んでいるが、たまには自分の目で見ようと思ってね」

「中立ねぇ…熊野は平氏寄りだろう。だから京にいる貴族や平氏と積極的に交流していた。その言い方では状況次第では源氏側につきたいと言っているようなものだ」

「それは失言だって、俺に忠告してんの?」



小生意気で挑発的な物言いに、男は苦笑して漆塗りの煙管置きに煙管を置く。わざわざ「忠告」と口に出すなんて、こちらを煽っているつもりだろうか?

あえてその問いには返答はせず、部屋の隅の文が散乱する文机を一瞥して、空いた右手で拳を握っては開く。開いた指先に少しだけ墨がついており、ツツと親指で拭った。



「…近頃文ばかり書いていて手が疲れるし、飽きていたところだ。京まで散歩に行くのも悪くない」



これから行くであろう険しい山道や、柔らかな草花が生えているあぜ道を思い浮かべて男は頬を緩めた。久しく長い時間外を歩いていなかった。足が痛くなるまで歩くのも悪くない。

それにヒノエと一緒なら、退屈しない旅になるだろう。



「この時期なら蕗の薹が食べ頃だ。京へ行く途中で取っていこう」

「お前ってそういうの好きだよな。山菜取りとか、農作業とか。海で生まれたくせに山にいる事の方が多いだろ」

「どちらも好きだよ。だが美味しい物を作る際に手がかかる方が作り甲斐があっていい。魚は干すか捌くしかする事がないから、自然と山寄りになってしまうだけさ」

「瀬戸内海が泣いてるぜ、みちの―――」

「それ以上言うな」



男は火種が残る煙管をヒノエに突きつけて、鋭利な眼差しを向けた。

冷ややかな男の目に地雷を踏んでしまったと気付いたヒノエは、喉をグッとしならせ氷解を背中に滑らせた。



「その名で呼んだら海に沈めると、何度も言っているはずだが」

「んな怒るなって。慣れないんだよ」

「僕の名前は何だ?」

「宇鷺。野河宇鷺だろ」



ヒノエの明快な返答に満足したのか、金髪の男――宇鷺は煙管を手元に引き戻して柔和に笑った。コトリと煙管を置く。武器が宇鷺の手から離れた事にヒノエは安堵の息を吐いた。



「そう、僕は宇鷺だ。勝浦に住む日蔭人。知り合いが多いから日に書く文の量が多いだけのつまらない人間だ」



ぱちりと瞑目する。

自分の胸を燻る熱い炎に蓋をするように、熱い吐息を零した。




序章Fin.


わからない時代背景や和歌などを何となくで解説している
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