伊予の戦女神
□勝浦の日蔭人
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燃ゆる星屑輝く夜空を眺めながら、緩慢な動作で煙管に紫煙を燻らせた。
この日ノ本にはない品である上物の煙管は最近西国との貿易で手に入れた一品で、黒を主に濃い赤で蓮華の模様が彫られており、華美過ぎず地味でもないそれは大のお気に入りだった。
紫煙は蛇のように妖しく揺らめきながら、濃紺の空へと溶けてゆく。ぱちりと瞬きをして、徐々に薄れゆく煙の先を見つめた。
「(…口から零れたこの煙は、そもそも何処へ消えるんだろうな)」
まるで恋い焦がれる人に後ろ髪を引かれたように、白い軌跡を残して緩やかに姿を霧散する。確かにそこに在ったはずなのに、ぱちりと瞬きをしたときには揺らいで、不安定な存在になって、再び瞬きをしたときにはもういないのだ。
この紫煙は、本当にこの世から消えてしまったのだろうか。
もしかしたら平常、消えたと思っていた煙は空気中に残留していて、呼吸する度にまた体内に巡るとか、はたまた空へ昇り大空を優雅に泳ぐ雲へとなってしまったとか、そういう可能性はないのだろうか。
吐いた瞬間は確実にそこに在るはずなのに刻が進むと存在が無に帰すそれは、まるでこの世の常のようだ。
不意に、唇が動いた。
―――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ……「(盛んな者は必ず衰える、か…)」
ふっと息を吐いて脇息に凭れかかると、背中にひやりと微かな風を感じて静かに目を瞑った。
「また唄ってるよ。飽きないねぇお前も」
「僕の邸に来る場合は文を一つ寄越してから来い、といつも言っているね?ヒノエ」
ヒノエ、と呼ばれた少年はすきま風を塞ぐために置いておいた椿の几帳を器用にかわして、自身を"僕"と呼ぶ者の隣にどかりと腰を降ろす。目を細めてヒノエを見れば、ヒノエは悪戯っぽい笑みを浮かべて目の前にズイと伽羅の香り漂う文を差し出してきた。
男は深緑色の目を眇る。
「これは?」
「文。ちゃんと寄越したら来てもいいんだろう?まどろっこしいから、俺が直に手渡ししようと思ってね」
「呆れた。まったく君って奴は…文のやり取りは君の為でもあるというのに」
眉を下げて溜め息を吐いても、ヒノエは気にも留めずに紅蓮のような赤い前髪を揺らして笑っている。男は鼻にかかる金糸の前髪を邪魔そうに耳にかけて、脇に置いてあった自分の飲みかけの御猪口をヒノエの前に置いた。
煙管を持っていない左手で、御猪口に酒を注ぐ。濁った琥珀色の液体が器を満たした。
「これお前んトコの?」
「ああ。新しく開発したから飲んで味の感想を聞かせてくれと送ってきてね。果実を多めに取り入れたそうだ」
「ふ〜ん…で感想は?」
「飲んだらわかるさ」
物珍しそうに猪口の中でたゆたう酒を見つめていたヒノエは、金髪の男の役に立たない返答を聞いて暫く考え込んだあと、猪口に唇をつけてゆっくりと嚥下する。感想を待つ間に金髪の男は一応ヒノエからの文に目を通そうと紙を開いた。が、真っ白だったのでぐしゃりと握り潰してその辺に投げた。舌打ちを堪えてチラリとヒノエを一瞥する。
「んん…?」と声を漏らして形の良い眉をしかめていた。
「結構甘いね。嫌いじゃないけど俺には合わないかな」
「酒が弱い奴か、女人向けだと僕も思うよ。香りを特にこだわったと書いてあったから、余分に果実を入れたんだろう」
「これは"酒"って呼べねえだろ。うちの連中が飲んだらなんだこの甘い水って憤慨するぜ」
「もう少し置いたら深みがでるかもねぇ」
言いたい放題言ってくれるヒノエに困ったように笑って、金髪の男は銚子(ちょうし)を床に置いた。早めに感想が欲しいと文に書いてあったが、味の感想を伝えるのは暫く時が経ってからにしよう。酒と共に同封されていた文の存在を思い浮かべ、密かに頷いた。
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