お伽噺ー零ノ域ー

□紫水晶の誓い
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『…私は大丈夫だから。放っといて』



何が大丈夫なものか。お前今、自分がどんな顔してるかわかってるのか。



『アンタに私の気持ちなんてわからないし、関係ない。理解してほしいとも思わない』



ああ、俺はお前じゃないから、お前の気持ちなんて微塵もわからないさ。特にお前は何も言ってくれないから。

でも、それでも、

理解が許されるギリギリのところまでは教えてほしいんだ。



『誰もいらない。なにも欲しくない。生きているだけでいい』



「じゃあなんでお前は泣いているんだ」



眼鏡の奥、濡れた黒耀の瞳は驚いて双眸を丸くした。その瞳に俺は「しまった」と苦汁を喫する。





****





俺と凍花が出会ってまだ1ヶ月も経っていない時分だった。その頃の俺は真壁先生の弟子になりたてで何かと母校の図書室にお世話になる機会が多く、職員室に足を運びすぎて「宗方君ったらもう一度学生をやり直したら?」と笑われてしまったくらいだ。それも悪くはないと思ってしまった自分に苦笑しながら、首には「学校関係者」のカードをぶら下げてすっかり馴染んでしまった廊下渡り、図書室の扉を開ける。俺が来るのは決まって図書室を利用する生徒が少ない夕方だ。夕陽に照らされてふわふわ揺れるパールグリーンのカーテンや、そよ風に乗って薫る古い本独特の香りに満ちたこの空間が堪らなく大好きだ。

そして室内に足をいれてすぐに「こんにちは」と声をかける。すると間髪入れず「また来たんですか?」と冷ややかな返答、その後に小さな声音で「こんにちは」と返ってくる。このやりとりを何度行った事だろう。夕陽のカーテン、本の香り、そしてこの2つの返答。3つが揃って俺の胸は幸福で満たされる。俺はこの時間を『優しい時間』と名付けた。

俺に冷たい女生徒、京極凍花。元担任だった先生曰く、俺が夕方に自由に図書室を利用できるのは彼女が図書室の鍵を預かっていて、管理をしてくれているからだそうだ。彼女の人柄は知らなかったから、一生徒に教室の鍵を預けていいのかと訊いたら



「あんな誰も行きたがらないような場所を好きになってくれただけでも有り難いわ。利用者がいなくなったらあの図書室の本全部を捨てようって副校長が言い出して、それを聞いた凍花さんが自らの管理を申し出たのよ。私はこの学校の図書室が大好きだから、彼女がいてくれて本当によかった」



と嬉しそうに目を潤ませて話していた。掃除とかも京極凍花がしているらしく、機会があったら俺も手伝おうと思った。俺がこうして図書室を利用できるのは彼女の御蔭だからな。

とまあ彼女が恩人ということもあって、最初は気を使って妙に明るく声をかけたりしていたのだが、あいつは気を使うなんて言葉を持ち合わせていなかったようだ。



「こんにちは、京極さん。何の本を読んでるんだ?」

「それ、貴方に言う必要あります?」



俺の事を一切見ずにそう言った。しかも会話もそこで終了。

カッチーン、てなるだろ。



「人と会話するときは相手の目を見て、って習わなかったのか?京極凍花」

「お互いが話そうという意識を持って初めて会話は成立します。一方的に話しかけられても、私に話す気がなければ目を見る必要もないでしょう?」



こいつ、可愛くない。

しかも割と正論を言っているだけに言い返せない。悔しいけど、本当に悔しかったけど、



「成程な……」



と呟いてしまった。凍花は俺の反応に驚いたようで、目を丸くしてこちらを見る。初めて彼女が俺を見た瞬間だった。



「…普通、納得するとこじゃないんですけど」

「そうだが、お前の言い分には一理ある。私怨で真実を否定するのは良くないよ」

「変な人」

「へ、変な人!?京極、仮にも年上に向かって」

「凍花」

「は?」

「名字で呼ばれるのは嫌いです。だから名前で呼んで」



そう言った凍花はまた手元の小説へ視線を戻した。俺からすれば凍花の方が変な女生徒という印象だった。

以来図書室に通い続けた俺は、凍花の性格が段々わかってきた。人に気を使うのが面倒だから図書室に籠っているということ、本が大好きだということ、本が好きな人も好きだということ、学年全員に苛められてた壬生恭四郎という男子生徒が面倒だけれど放っておけなくて、この図書室に居場所を作ってあげたこと。特にこの恭四郎についての件はかなり驚いた。いつものように「こんにちは」と声をかけたら「また来たの?」という返答の次に「こ、こんにちは」という弱々しい声が付いてきたから。



「ああ、壬生、あいつがさっき話してた宗方良蔵。今日も来た」

「お前ね…紹介するならもっと他に言い方があるだろ。ムカつくから今日も来てやった」

「こうやって最上級の嫌がらせをしてくるのが宗方良蔵って人。わかった?」

「貴様」

「あ、あの……」



凍花が遠慮しないから俺も遠慮しない。こうして全く気を遣わずに会話するのが楽だった。恭四郎は俺たちの普段通りの会話についていけすオロオロしていたが、それも1週間くらいで慣れて来て俺に勉強を教えてほしいと言ってきた。



「俺よりも先生に聞いた方がいいんじゃないのか?計算の解釈とかかなり自己流だぞ?」

「え…と……」

「馬鹿ですかアンタ!」

「いてっ!」



突然凍花に足を踏まれて何事だと彼女を見れば、大層ご立腹の様子で鬼の形相で俺を睨んでいる。思わずゴクリと息を飲んだ。



「いいか宗方よく聞け。壬生をハブってんのは生徒だけじゃないんですよ。くだらねー噂を信じてるくだらねー先生だっている。先生がそんなんだから生徒が便乗して今も収拾がついてないんです。それくらい察せ」



凍花の言い方は些か乱暴だが、恭四郎を想っての暴言だと思うと怒れない。寧ろ恭四郎への申し訳なさでいっぱいになって、最大限腰を折って頭を下げた。



「そ、そうだったのか。すまなかった、恭四郎」

「いえ、いいんです。気にしてません」

「だが……」

「最初の頃は勉強の事、諦めてました。先生たちが僕のことを気味悪がるのは仕方ないので…でも、お二人に会って、僕は少し意地が悪くなりました。遅れていた学力を取り戻して、皆を上回って、驚かせてやりたいと思うようになったんです」



そう言った恭四郎の瞳には強い意志が宿っていて、俺は驚いた。少し前までは自信が全くなくて生気すら感じられない少年だったのに、いつの間にか1人の立派な人間になっていた。凍花は隣で微かに口角を上げながら読書の続きをしている。



「もう、何も諦めたくないんです」



ちくしょう、何も知らなかったのは俺だけだったようだ。



「駄目ですか…?」

「向上心がある人間は好きだ。俺なんかでよければ、喜んで教えるよ」

「ありがとうございます!宗方先生っ」

「ぶはっ!宗方先生って…ククッ…あははははっ!!」

「凍花貴様」



こうして俺は図書室の資料を漁りながら恭四郎に勉強を教えるという、奇妙な恒例が出来てしまった。恭四郎はかなり優秀な生徒で、取り敢えず俺に解き方を訊く前に自分なりに問題を解いてくる。そこから解けなかった問題をどうして間違えてしまったのかを教えた上で正しい解き方を教える。考えに考えた上で聞いてくるので程よく自分の作業も出来るし、凍花は何も言わずに読書しているだけだがそれが逆に静かに恭四郎を見守っているような気がして、微笑ましかった。

静かに穏やかに流れていく時間。

『優しい時間』は俺にとって大切な時間になっていった。



――――――――――だけど、



『じゃあなんでお前は泣いているんだ』



俺は自らの手で『優しい時間』を壊してしまった。


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