お伽噺ー零ノ域ー
□胸を裂く、冷色
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私はこの男をよく理解しているつもりだったけど、まだまだ理解不足だった。
「凍花………」
否、本当に解ろうとしていたのだろうか?
「宗方ッ!」
水浅葱に菖蒲が妖しく咲き乱れる。
雨と呼ぶには些か乱暴な、驟雨が上がり私は樹月くんと共に一度黒澤家へ行った。露に濡れた木々は平常よりも重たげに葉を揺らす。濡れた葉のそよぎや肌を舐める冷気に自然と心が重くなっていくのを感じた。物々しい不気味さが私に「またおいで」と誘っているみたいで。
『…また、いらっしゃい。今度はもっと困った時に』
そう言った暮羽の微笑みは冷たかった…ような気がする。石畳の階段を降りながら一度だけ暮羽神社を一瞥した。当然だけど、あいつの姿はなかった。
そうして黒澤家に帰還した私は重要な事を忘れていた。記憶の欠如、いやこれはもう常識の欠如と言っていい。私が神社に出掛けたのは早朝、暮
羽との云々があって昼、樹月くんが私を探しに来て雨が降って夕方、現在は風が少し冷たい夜。思えば樹月くんが来てくれた時にどうして気付けなかったのだろう。
「凍花さん、何処にほっつき歩いてたのよ!」
「す、すみません。少し、その…外で考え事を」
「貴女が帰って来ないって心配した宗方さんがこんな大雨の中、傘も持たずに凍花さんを探しに行ったのよ?まだ帰って来てないわ!」
宗方が私を探しに行った?
雨の中を、雨が止んで気温が冷え始めた今も?
サァ…と顔が青褪めていく。
「っそれは不味い!」
「不味いなんてもんじゃ」
「あいつ気管支喘息持ちなんだ!早く探しに行かないと!!」
「凍花待って!」
樹月くんの制止を振り切って玄関へと逆戻りする。せめて着替えてから行けと叫んでいる八重お嬢さんの声も無視して、兎に角廊下を疾駆した。
早くあの男を温かい場所へ連れてこなければ…っ!
「京極」
草履を履いている暇なんてない、最悪足袋のままで探しに行こうと息巻いていた矢先、玄関にずぶ濡れの真壁さんがひっそりと立っていた。こんな激しかった雨の中、一体どこへ行っていたのだろうか。退いてください、と口を開きかけた刹那、真壁さんが背負っている人物を見つけて瞠目した。
「凍花………」
「宗方ッ!」
真壁さんと同じく全身を濡らし、弱々しい声で私の名前を呼んでいる。身体をぐったりとさせて喉をヒューヒュー鳴らしながら苦しそうに喘いでいる知人の姿に、私は胸が引き裂かれる思いで二人に駆け寄った。
「真壁さん、宗方は…っ」
「落ち着きなさい、京極。彼は何か持病を持っているのか」
「はい、はい。喘息を…気温が低い時に走ると酷い喘鳴(ぜんめい)と咳が出ます。でも寒い所から急に暖かい所に来たりその逆でも症状が……」
「なら急性に温めても駄目だな。取り敢えず髪を乾かし着替えさせて寝かせるのが一番か」
狼狽える私に真壁さんは細かく今後の動きを決めてくれたので、とても有り難かった。今の混乱した頭じゃ適切な行動を取れそうにない。私の後を追って走ってきた八重お嬢さんと樹月くんにも手伝ってもらい、急いで宗方を黒澤家へ引き摺り上げた。
樹月くんに宗方の着替えをお願いし、八重お嬢さんと私で床の準備をする。と言っても動揺している私は役に立てず、ほぼ八重お嬢さんに整えてもらったようなものだ。
「すみません、八重お嬢さん…ご迷惑をおかけします」
「何辛気臭い事言ってるのよ。知り合いが自分のせいでああなったら誰だって動揺するわ」
「………すみません」
自分のせいで、と言葉を反芻させて更に落ち込む。それに気付いた八重お嬢さんはしまった、という顔をして私に何か言葉をかけようと身を乗り出したけど、何か言う前に着替え終えた宗方を連れた樹月くんが来たので中断した。季節が季節なだけに火鉢は物置の奥にあったので、湯たんぽで温めていた布団に宗方を寝かせる。
水浅葱色の布団に刺繍されている紫の菖蒲を見て胸が痛んだ。冷色は無意識に罪悪感を刺激する。
「宗方さんは私が看てるから、二人はお風呂行って来て。二人だって身体、冷えてるでしょ」
こちらを振り返ることなく淡々と告げる八重お嬢さん。怒っていることは明白で、さっきの『自分のせいでああなった』には彼女の無意識の怒りが籠められていたのだと今更ながらに理解する。
…そりゃ怒るよね。好きな人が私なんかのせいで喘息引き起こしてるんだから。
「八重」
落ち込んでいる私を見かねてか樹月くんが強い声で彼女の名前を呼ぶ。「何」と素っ気なく言った彼女はやっぱりこちらを見ようともしない。ズキッと胸が痛んだ。
「これは僕たちのせいでもあるんだよ」
「どうして私たちのせいになるのよ」
「……本当にわからないの?」
「…………」
樹月くんの声のトーンが低くなる。優しい樹月くんしか知らない私は背中に氷塊を滑らせた。八重お嬢さんは眉を顰めて宗方の顔をずっと見つめている。彼女なりの反抗のようだ。
頑なにこちらを見る気配はなく、樹月くんは溜め息を吐く。これ以上私のせいで険悪ムードになったらそれこそ居た堪れないので、口を挟もうとしたらポンと樹月くんに肩を叩かれた。彼は首を振っている。
「…じゃあ八重の言葉に甘えてお風呂を借りるよ。行こう、凍花」
この場合彼の言葉に従い素直にお風呂に行くべきなのか、はたまた宗方の傍にいるべきなのか、考えかあぐねている私の腕を樹月くんは強く引っ張った。あまりに力強いものだから私も立たざるを得ず、少しふらつきながら立つ。
上から宗方の顔を見れば、あいつが苦しそうに呼吸を繰り返している様子が如実に見えて泣きたくなった。泣きそうになる寸でのところで腕を強く引っ張られて襖に視界が切り替わる。やっぱり樹月くんは優しい人だと思った。
「随分凍花さんに優しいのね。好きなの?」
襖を開けていた樹月くんは背中越しに投げかけられた言葉にピタリと動きを止める。そして大きく肩を上下し、溜め息を吐いた。
「どっちが?」
たった一言なのに、八重お嬢さんには重く響いたようで息を飲んだ音が聞こえる。樹月くんはそれ以外の言葉をかけることなく私を引っ張りながら部屋を出た。
パタンと閉じた音がやけに薄暗い廊下に響き渡る。
「………」
「あの、樹月くん…」
「ごめんね、変な空気にしちゃって」
申し訳なさそうに苦笑する樹月くんの顔を見て大げさだけどほっとした。八重お嬢さんにあんな見え見えの敵意を剥き出しにされただけでも心が痛いのに、樹月くんにまで変貌されたら立ち直れない。
「私こそすみません。八重お嬢さんが怒るは当前なのに、目に見えて落ち込んでしまって…」
「謝らなくていいよ。八重の素直になんでも口に出しちゃうところは美点でもあるけど、欠点でもある。言い過ぎちゃうんだよね」
それで村の大人たちと何度か言い合いしてるし、と笑う樹月くんに私もこれ以上心配をかけまいと口元に歪な弧を描いた。
「京極、樹月君」
「真壁さん」
「そんな所で何をしている。まだ湯あみをしてなかったのか」
奥の廊下から静かに歩いてきた真壁さんは私たちの姿を見て微かに目を見開いた。そういう真壁さんは既にお風呂を済ませたようで寝巻姿になっている。
「あれから1時間は経っている。君たちも風邪を引く前に早く湯を借りて温まってきなさい」
「は、はい」
「…宗方は私が看ている。心配するな」
「…はい」
これが年の功というのか、真壁さんの言葉には私を安心させる魔法がかけられていると思う。大分心が落ち着いてきて、「あ」と声を出した。
「中には八重お嬢さんが居て、彼女も宗方を看てくれています」
「そうか。彼女は一人か?」
…?
「はい」
「そうか…それは都合がいいかもしれん」
何が、と尋ねる前に真壁さんは足早に宗方の部屋へ入って行った。
「真壁さん?」
「…凍花、早く行こう」
「そう、ですね」
あの部屋には今三人いる筈なのに、やけに静かでまるで誰もいないようだ…と錯覚した。
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※実際の宗方良蔵は喘息持ちではありません。
私の捏造ですのであしからず。