お伽噺ー零ノ域ー
□三色菫を君に
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神様が流した涙というには程遠い、盥いっぱいの水をひっくり返してしまったような豪雨の音が遠くに聞こえる。時刻は昼間だというのに辺りは仄暗くて、私と樹月くんは二人寄り添うようにして祭壇を背に座った。運が良いのか悪いのか今は夏だから寒くはないのだが、本殿が醸し出す目に見えない重圧に耐えられなくて、私が引っ付いていると言った方が正しいだろう。樹月くんは最初驚いて目を丸くしていたけど、呉羽の話もあってか曖昧に笑って黙って私の隣に座ってくれた。
「(樹月くん、呉羽について深く訊いてこないな……)」
本殿の戸をずっと見つめている樹月くんを横目で盗み見る。彼は座ってから黙したままで口を開こうとしない。何か深く考えているようにも見えた。
皆神村には呉羽という人物はいないと言われてから樹月くんは呉羽について一向に触れる気配はなかった。もしかして私の妄想、もしくは世迷言と判断してあえて訊かないのだろうか?それとも興味ないから訊かないのだろうか。
「(それはそれで虚しい、な)」
私は確かに誰かと会話していたんだ。過去のホログラムのような不確かなものではなく、きちんと考えて自分の意思を持っている人間と。だってあんなに対等に会話していたじゃないか。リアリストの私でも流石にあいつだけは夢という安易な形で片づけることは出来ない。
「(あいつは私を殺そうとしていたんだろうか…じゃなきゃあんなピンポイントで穴の前に立たせるわけがないし)」
「…雨、止まないね」
「へ?あ、ああ…そうですね」
沈黙を貫いていた樹月くんに突然話しかけられて不自然に肩が揺れた。よく耳を澄ませば聞こえるザーザーという雨音に呉羽に関する思考を一端止めて苦笑する。
「このままじゃここで一夜過ごす羽目になるかもしれませんね」
「それもいいかも。もっと雨降ってくれないかな」
「これ以上雨が強くなったら村全体が流されて消えちゃいますよ」
久しぶりに樹月くんが笑いかけてくれたから私的には笑える冗談のつもりで言んだけど、樹月くんはサッと顔を強張らせて眉を潜めた。ぎゅっと二の腕をきつく握って天候のせいで随分冷えた床を睨む。
「流れてしまえばいいんだ…何もかも、全て」
ぽつりと呟いた言葉。とても小さな声だったけれど、静かな本殿の中では嫌なくらい響いて、私の耳に届く。
「樹月くん…?」
「…ねぇ、少し前に大きな荷台を持って村に来た男の子と楽しそうに会話してたよね。あれは誰?」
「え?あ……」
全て流れてしまえばいい、という言葉の本質を訊こうと思ったら話題をあっさり変えられてしまい、暖簾に腕押しで終わった。しかも思いつめたような表情をしていたのは一瞬だけで、今の樹月くんの顔に陰はない。少々腑に落ちなかったけれども無理やり問いただすのは気が引けたので、彼の質問に答える事にした。
「それっていつの話ですか?」
「3日前くらいかな。御園で」
御園で、男の子と……
「ああ!壬生の事ですね」
3日前といえば壬生に不足した物を届けてもらった日だ。この村に来てから1日1日の出来事が濃厚すぎてすっかり遠い日のように思える。
「(もしかしてあの時感じた視線は樹月くんだったのか?)」
「壬生さんって言うんだ。どんな関係なの?」
「んー…仕事仲間で、学生時代からの友達…ですかね」
あ、なんか改まってあいつを友達っていうのはこっ恥ずかしいな。こなくそ。
カァと頬が熱くなった。
「…凍花と壬生さんって恋人?」
「ハァ!?ないない在り得ない!!」
ジッと樹月くんに見つめられて慌ててブンブンと否定の手を振る。つい敬語で話すのを忘れてしまったけどもこればかりは誤解されては困る。
「壬生とは間違ってもそんな関係にはなりませんよ!」
「どうして?あんなに仲が良さそうだったのに」
「な、仲は良い方ですけど、そういうのではないんです」
語尾が弱くなっていく自分が情けない。湿気で頬に纏わりつく髪を耳にかけて肩を窄めた。
おば様にも壬生との関係について訊かれたことがあるけど、あの時も私はこんな感じの反応をしてしまった。今でも忘れられない…珍しく弱気になってしまったものだからおば様は何を勘違いしたのかニヤニヤしているし、隣にいた壬生は感情をはっきりと断定出来ない曖昧な笑みを浮かべているし、偶然虹花も居合わせて――――――
物凄く、睨まれた。
あいつがどんな人生を送ろうが感情を持ち合わせようが私には関係ないと思っていたけど、流石にあの態度だけは見逃す訳にはいかなかった。
だって壬生は、
「壬生は…」
私にとって大切な、替えの利かない存在なんだ。
「…………」
「大事な人なんだね。壬生さんは」
「な、何でそう思うんですか」
「顔を見ればわかるよ。優しい顔してる」
「っ!」
ひんやりと冷たく白い指先が私の輪郭をなぞり、私はビクリと大きく肩を揺らした。樹月くんの静かな眼差しが私を射抜く。今世紀、異性とこんなにも接近した経験を持たない私。綺麗なバーントシェンナの瞳に囚われて、心臓が熱くなったり冷えたりして平静を保つことが出来ない。
「ちょ、樹月くん」
極度の緊張から上擦った小声しか喉から出ない。じんわりと体も火照り、湿気と相まって更に衣服が肌に張り付く。
ど、どどどうしよう!
力ずくで振り解く事も出来るのだろうが、もし私が拒んで樹月くんを傷つけてしまったら…と思うと身動きが取れない。焦燥感でいっぱいの私に樹月くんはまるで追い打ちをかけるかのようにグッと身を寄せ、唇を頬へ、そして耳元へ。
「凍花」
鼓膜を震わせた艶っぽい吐息に、反射的に目を閉じた。
「行かないで」
樹月くん、と名前を呼んだ筈なのに声にならない。
しなやかな腕に両肩を押されて、私の身体は湿った床に縫い付けられた。視界の端で蝶の赤い灯篭がチラリと映る。彼の為すがのままに正面を向いた私は、瞠目した。
「帰らないで。僕の前からいなくならないで」
そしてポタポタと
「いつ、き…くん…?」
バーントシェンナの瞳から溢れた滴が、私の頬を静かに濡らした。一滴一滴、私の輪郭を撫でるように湾曲して頬を流れていく。
「嘘。本当はここにいてはいけない。でも……っ」
「樹月くん」
「僕は、僕はどうすればいいのか…」
頭を振りながら泣きじゃくる樹月くん。私こそどうすればいいのかわからない。
どうして彼は泣いている。
どうして彼は戸惑っている。
彼は一体何と葛藤している?
「樹月くん…」
戸惑いながらも私は手を伸ばす。
そして幼子のように泣く少年の頭に、優しく手をのせた。
「私は、君を救うことが出来る?」
無意識に口から出た言葉。樹月くんは大層驚いたようで目を見開いて私の顔を見た。しかし彼以上に自分も驚いている。本当は「泣かないで」とか「何処にも行かないよ」とか、在り来たりな慰めの言葉を言うつもりだったのに、全く予期してなかった言葉は口から零れ落ちる。
一体私は何から彼を救おうと言うのか。
「凍花…」
「…えと、出会ってまだそんなに日にちが経ってませんし、私なんかが烏滸がましいかもしれないんですけど、っていうか絶対に烏滸がましい話なんですけど、もし樹月くんが困っていることがあるのなら私は君の力になりたいです」
どの口が、と我ながら嘲笑する。まだこの村に来て日が浅く、名産も伝統も、歴史も何も知らない私が、この村で生まれ育った彼のどう力になれるというのか。まだ好きな食べ物も、色も、誕生日も知らないというのに。
それでも
「私は、君を助けたい」
男の子の涙は、見たくない。
そう言い切った後に不意に宗方の顔が脳に過ぎって、不謹慎だけど少し笑ってしまった。
「凍花、僕…は…」
「…あ、雨が止んだみたいですね」
気が付けば雨音はなくフクロウの鳴き声が聞こえる。雨宿りしているうちに夜になってしまったようだ。早く戻らなければ色んな人に心配をかけてしまう。
「帰りましょう、樹月くん」
にこっと微笑む。意識して笑顔を作るのは苦手なんだけど、私の不細工な引きつり笑顔で笑えばいいよ。
「私を見つけてくれてありがとうございます」
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