□珈琲
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「いらっしゃいませ。」

長めの髪の右側がふわっと浮いた男性が無言で入ってきた。

従業員の言葉にちらりと視線を与えるとすぐにそらしてひとつ、ため息を落とす。

そのまま、扉の反対側――窓もなにもない角の席にどかっと腰を落とした。

そしてまたため息。


彼の目の前に綺麗に水滴が拭われた御冷やと御絞りが置かれた。

御絞りからのぼる湯気を吸い込んで、入店後3度目のため息を提供した。


「御注文はいかがいたしましょう?」

従業員はにこやかに問う。


彼はそんな従業員を隈無く観察するかのように視線を這わした。

「お客様?」

「珈琲」

無愛想に単語を投げかける。

「ホットにしますか。アイスにしますか。」

「ふんっ、任せる。」

「ではホットで宜しいですか?」

「あ…、ああ。」

困惑せずに即答した従業員に少し驚いた。

「かしこまりました。少々御待ちください。」



颯爽と歩く後ろ姿を見送ると、彼は手持ちの丈夫そうなバックからペラペラな紙を取り出した。

「はぁ…」

右手で頭を掻きながら左手をバックの中に突っ込むと、シャープペンシルを探し出す。

そして机に向かい眉間に皺を寄せた。

人差し指と中指に挟まれたシャープペンシルが動く気配はない。

机が彼の貧乏揺すりに合わせて小刻みに震えていた。



そのうち、店内に漂う芳ばしい薫りが強まってきた。

薫りが肌をくすぐり、更に強まる。

「お待たせいたしました。珈琲でございます。」


机に向けた視界の端にシンプルな白い珈琲カップが映った。

彼はカップを一瞥し、従業員に目を向けた。


「白い…珈琲はないのか?」

突拍子のない言葉が飛び出す。

「ふふ、そうですね。申し訳有りませんが当店では仕入れておりません。」

その柔らかな声色が彼の興味を引く。



「アイディアがわかないんだ。」

少し責めるような口調で漏らす。


「さようでございますか。」


「お前、名前は何と言うんだ。」

重要なことを尋ねるように言葉を紡いだ。


「私はレイ、と申します。」

「違う。フルネームだ。」

彼がそう言うと、従業員――レイは甘く微笑んだ。


「私には分かりかねます。」

「は?」

彼の瞼が持ち上がり、黒目と白目の境目が見えた。

「年齢は?」

「それも、私には分かりかねます。」

「出身地は?」

「申し訳ありませんが、」

「そんな訳はないだろう?」

彼は眉をひそめる。


「では、企業秘密でございます。」



「ふん。
 …アイディアがわかないんだ。」

ひそめた眉と棘を持つ声色に反して彼の口元は緩んでいる。

「なぜアイスコーヒーではなくホットコーヒーを選んだ?」

頭を掻いていた右手はいつの間にかスティックシュガーをいじっていた。

湿った紙に皺がよる。


「それは、」

「企業秘密か?」

心なしか弾む声で彼はレイの言葉を遮った。

「さようでございます。」


その言葉を聞くと彼は再び机上に視線を戻した。


「やっぱり、アイスコーヒーにしてくれないか?」


「申し訳ございません。
 只今氷をきらしております。」


「はは。」
彼はゆっくりと顔を上げる。

「そうか。」

シャープペンシルを握る指が緩まった。



カランと鳴った扉が開いて、ぬるい風が肌を包んだ。

「いらっしゃいませ。」
従業員は体を扉の方に向け歓迎の言葉を投げ掛ける。



「アイディアが、わかないんだ。」

小さく小さく空気に言葉を浮かばせる。


「さようでございますか。」




漂う珈琲の薫りを吸い込んで彼は言う。

「明日は氷を用意しておいてくれ。」




fin.
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