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□雨
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(好きだ)

初めてそう意識したのはいつだっただろうか。

部屋の隅の壁にもたれかかるように座り、冷たい窓ガラスに額を預け僕は考える。深夜二時。部屋の明かりは点けていない。
雨は夜半過ぎに激しさを増し、雨粒を叩きつけるように降りしきっている。それは窓ガラスを通しても微かにざあ、という音が聞こえる程で――こんなことは滅多に無かった。この分厚い一枚ガラスは、たとえ外でどんなに天気が崩れていても部屋の中の無音を保っていることの方が多かった――、幾筋にも伝い流れる雨の様はさながら小さな滝のようだった。
そのガラスの向こうにそびえ立っているビル群の、深夜になっても消えることのない橙や白や赤の光が雨に滲み、明かりを点けてはいない部屋の壁や自分の指や腕や足の輪郭をぼんやりと妖しく浮かび上がらせていた。それは僕の体の一部であるはずなのにひどく幻想的に見え、しばらく動けなくなった。動かそうとすれば砂になって崩れてしまいそうな、そんな非現実的な感覚に何故だか陥ってしまっていたのだ。


(好きだ、)

僕はもう一度心の中で、確かにそう呟いた。

いつの間にか僕の生活に入り込み、大いに掻き乱し、そして僕が受け止めきれない程の優しさを与える彼を、僕はいつしか欲するようになっていた。
どんなに突き放そうとしても駄目だった。遠ざけようとすればするほど彼は無理矢理にでも近づいてきて、そうして殴りたくなるような笑みを口元にたたえて他意などみじんもなく僕の肩を叩くのだ。「なーに眉間にシワ寄せてんだよ」と。

初めは怒りだった。僕の領域に踏み込んでくるな、という、単純な怒りだったと思う。それを顕にしても彼は無神経に近づくのをやめなかったので、そのうち怒りは「どうして僕に構うのか」という疑問に変わっていった。どれだけ考えても答えは出ず―例えば彼が無遠慮であるとか単細胞であるとか単純に馬鹿であるからとか、そういった下らない理由ならばすぐに思い付いたのだけれど―、余計に僕を苛立たせた。そんな風にして日々は過ぎていった。最良の、なんてお世辞にも言えない彼とパートナーとして仕事をこなすうち、気づけば僕は彼のことを一日中考えるようになっていた。
そのことは僕にとって非常に恐ろしい事態だった。自身では制御できない感情に身体が、脳が、支配されてしまう感覚。それは、両親を殺された日から抱き続けてきた復讐心と同じ類の感情だった。気づけば僕の心に根深く巣食っていた。
もうごめんだ。そう思った。苦しい思いはもうしたくない。忘れられることなら喜んでそうしたい。けれど、彼に与えられた言葉やしぐさの、そのひどく優しい記憶が僕の中で輝いてどうしようもなかった。

「好きだ」

今度は口に出していた。
口にした途端、その言葉の意味が現実味を持って僕の耳に響き、言えるわけがないと反射的に思った。

言えない。貴方のことが好きです、なんて、言えるわけがない。

僕は諦めにも似た気持ちで少し笑う。

時計を見ると深夜三時を過ぎていた。手指が少しばかり冷えている。部屋の明かりは点けていない。
雨は、降り続いている。

20110729

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