TROVADOR

□白き花弁、濡らす雫のその味は・・・
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+白き花弁、濡らす雫のその味は・・・+



夜も更けに更けて、庭を照らす明かりが月光のみとなった刻。
重たい足取りと衣擦れの音に、男―――紅黎深は書翰から顔を上げた。
黎深には、その足音の主が誰なのかわかっていた。
これまで幾度となく自室に呼び出し、その身を掻き抱いた養い子。
だが・・・。
黎深の眉間に僅かな皺が寄る。
何故なら、今日は彼を呼んでいないから。
天津修行に出たい、などと言われてから、仕事に関わる事以外は一言も話していないのだ。
呼び出しなぞ、するはずもない。

「黎深様・・・」

結い上げただけの髪に、腰元のくつろいだ夜着を纏って、ふらりと戸口に立った。

「何か用か」

いつものように名を呼んでやる事はしない。
彼も大概、性格が子供なのだ。

「入室の許可を、下さい」

絳攸は、黎深に絶対忠実。
許可が下りなければ、大人しく諦めて帰っただろう。
けれど、自分でも驚いた事に、黎深の唇は許しを紡いでいた。

「構わん。入れ」

まるで子供のように、ペタペタと足を引き摺りながら、絳攸が真横に立つ。
俯きすぎる顔は、下からの視線でも覗く事が叶わない。

「何の用なのだ?」

書翰を閉じて頬杖をつき、黎深と絳攸とは向き合う形になった。
絳攸の顔は上がらない。
いい加減にしろ、と言いかけた時だった。

「・・・・・・を」

小さな小さな声。
初めは聞き取れなかった。

「・・・名を、呼んでいただけますか」

意の読めない願いに、黎深の眉根が寄る。
訝りながらも、望まれたとおりにしてやった。

「絳攸」
「氏より、お願いします」

眉間の皺が更に深くなった。
それでも、自分のつけたその名を、彼は好いていたから。


「李絳攸」


一拍の間を置いて、絳攸の膝が力を失い、かくりと折れた。

「絳攸っ!?」

突然の出来事に、黎深は慌ててくず折れかけた体を捉えた。
腰を抱えたはいいものの、文官の腕が急な力に反応できるわけもなく。
へたり込んだ絳攸につられて、片膝付く形となってしまった。
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