続きもの置き場

□井戸の底から見上げる月
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暮れも押し詰まり、木ノ葉の里は慌ただしい空気に包まれていた。
アカデミー教師うみのイルカの日常も例に漏れず、目が回るほど忙しい。
もっとも、それは彼にとって望むところでもあった。
こまごまとした用事に追われていれば、苦悩も後悔も心に入り込む隙がないからだ。

教職の他に受付業務も兼ねている彼には、働こうと思えばいくらでもやることがあった。
周囲もイルカの心中を慮ってか、遠慮なくどんどん仕事を回してくる。
かつてはイルカに奇異の目を向けた者も多かったが、今や同情を買う立場となった彼に世間は存外やさしかった。
無言の励ましに感謝しながら、今日もイルカはアカデミーを走り回っている。


彼の恋人は同性だ。
名ははたけカカシ、木ノ葉の誇る凄腕の忍。

イルカはかつて、そのカカシに一方的につきまとっていると巷では思われていた。
それが今では、わがままな恋人に振り回された揚げ句捨てられた可哀想な男、という認識に変わっている。

事実と照らし合わせれば、それはどちらも間違っていた。
もともとはカカシのイルカへの恋慕から始まった関係で、振り回したのも自分の方だったろう。
彼は一途過ぎたのだ。
ひとたび関係を持ってからは、イルカの関心がよそに向くのを嫌った。
イルカは自分に夢中なのだと人々に思われることを望んだ。

イルカもその要望にできる限り応えようとしたが、やがて閉塞感に耐え切れなくなっていく。
といっても、別れを選んだわけではない。彼の前でものわかりのいい先生を演じることをやめただけだ。
自分にはまっとうな社会生活を営む義務も権利もあるのだということ。
それがカカシに対する愛情を減衰させるものではないということ。
こうして異議を申し立てるのも、ふたりの仲をよりよくしたいと考えた故であること。
誤解や衝突を怖れず、粘り強くイルカは諭し続けた。

だが、やはりそれはカカシの求めた関係ではなかったのだろう。
繰り返される諍いに、いつしか彼がイルカのもとを訪れることはなくなった。
代わりに、夜の街でカカシをよく見かけるという噂が里に流れ始める。

それについてはイルカはあまり心を痛めることはなかった。
人の噂は往々にして事実とかけ離れているものだと充分に思い知っている。
たとえ本当だとしても、それが自分に与えられた罰ならばしかたない。
己の感情を制御するために敢えて距離を取っていたあの男に、不用意に近づいてしまったのは自分の方だ。
イルカが触れさえしなければ、はたけカカシは今なお高潔な人物として人々の尊敬を集め続けていたはずなのだ。

ただ、はっきりと関係を断たれるでもなく、どっちつかずの状態になっていることがつらかった。
夢の中でも、起きている間も、底の見えない深い井戸に落ちていく感覚に常に苛まれている。
それでもイルカは、カカシが自ら答えを出す日を待ち続けた。
でなければ、彼との間に波風を立ててでも自分の真情を訴えた意味がなくなるからだ。

オレは意地になっているだけなのだろうか、と時折イルカは考える。
失われたものを惜しんでいるだけなのかもしれないとも思う。
けれどその都度すぐに、そうではないと頭を振って打ち消した。

自分が信じているのは、イルカへの想いを己の命と等しく見なしてくれたカカシだ。
彼を愛おしみ、その気持ちに報いたいと心から思ったあのときの自分だ。
そしてふたりの間に、ひとときでも確かにあったはずの繋がりだ。

あの人は今、夜ごと別の相手を渡り歩きながらまことの愛を探し続けているのだろうか。
その相手は自分であって欲しかったけれど、それが叶わないのならせめて誰かが彼を幸せにしてくれることを願おう。
イルカにできることは、それだけだった。
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