pacco di fiore
□One
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4年前。
俺は都内で1番大きな図書館に就職が決まり、その夜は友達やら家族やらを家に招待し、どんちゃん騒ぎの宴だった。
その中にいたのが彼女、ユミンだった。
俺の2つ年上の彼女は俺の大学の教授の娘で、首席入学したとかで有名な人だった。
彼女は特に俺と直接関係があった訳じゃないけれど、俺が学んでいた教授がたまたま彼女の父親だったのだ。
彼女は元来根っからの男好きで、俺の大学の友達は皆、1度は彼女にお世話になったことがあったほどだった。
そんな彼女は、その夜この俺を選んだ。
「ジョンヒョナ、あんたって面白いね。」
「……え?」
「私と一緒にいるのに、まるで何も仕掛けてこないもの。あんたみたいなの初めてだよ!」
「……そう、ですか…。」
柑橘系の香水をそのまま呑んだような彼女の強い香りと、宴で嗜んだアルコールが混ざり俺の意識はとても確かなものではなかった。
連れ込まれていた部屋は、自分の家の一室でありながら全く知らない場所のように怪しいほど暗く、鍵もいつの間にか彼女に閉められてしまっていた。
そんな中、優しい声でニヒルに笑う彼女。
例えるなら、俺は魔女に試される目新しい薬草のような気分だった。
吐きそうになっていると、彼女が
「ねぇ!そこのお兄さん!」
と、彼女が部屋の外に立たせていたであろう図体の大きな用心棒を部屋に呼び入れた。
「お兄さん、私達今からやることがあるから、そこで見ててよ!」
彼女は、俺がゲイだと気付いていた。
だから外にいた、「男」を部屋に入れた。
意識を蝕む強い香りと、アルコールによる酔いで、俺の体であろうと自分でコントロール出来るものではなかった。
とどのつまり、俺は彼女のお気に入りのおもちゃにされたのだ。
それも、俺が図書館に初めて就職した時から、今の図書館に移ってくるまでの2年間もの間。
そのときはいつも酔わされて、部屋の中には俺の友達や当時好きだった人がいた。
その度に俺は心を殺された。
何度も、
【ぅあっ…ぐっ…!はっ…はぁ、はぁっは…】
何度も、
【アッハハハハハッ!!!! 次逆らったら写真、あんたの家族にバラすよ?いいのかなァ!?】
何度も。
彼女はいつも、終わったあとには魂を入れ替えたみたいに優しく俺に接し、泣きながら俺を抱きしめ謝った。
「許して」「ごめんなさい」と。
女性の武器が涙というのは本当で、実際、俺もこんな鋭利なナイフのような関係を2年も続けてしまったのだった。
しかし、
この関係を始めたのは彼女で、終わらせたのも彼女だった。
「ジョンヒョナ」
いつもの冷たく鼓膜に響く声。
「私、付き合ってる人がいるの」
「お父さんと…… 」
俺は絶望した。また激怒した。
失われた俺の大切なものたちは、もう一度拾い集めることが出来ないほどに暗い、谷の底に落ちてしまったというのに。
たくさんの可能性が、夢が、将来が、好きな人と一緒にいるそんな想像でさえも、彼女に撃ち落とされてしまったというのに。
彼女を、俺は引っぱたくことが出来なかった。
ただ、「さようなら、ユミンさん」とだけ言い去ったのだった。
俺は、それからずっと、女性が怖い。
元々得意ではなかったものの、うちは母と姉のいる家だったので、日常生活にはなんら問題はなかったのに、今ではすっかり苦手になってしまった。
同じ部屋に女性と2人でいられなくなってしまった。
ひどい時には冷や汗が滝のように出て、激しい動悸と共に呼吸困難になる。
《あの!大丈夫ですか?》
目の前の妊婦の方が、心底心配そうに見つめてくる。
「…え?ぜ、全然!気にしないでください、ちょっと考え事してただけなので…。」
《いえ、その…随分つらそうでしたから。すみません。》
なんだか触れては行けないところに触れてしまった、というふうに妊婦の彼女は自身の両手を固く腹の上で結んだまま、俯きがちに言った。
女性というものは、妊娠すると周りの音や匂い、食べ物の味にも敏感になるらしい。ともすれば、人の抱える焦りや畏怖も感じ取りやすくなるんだろうか。
「心配かけてすみません、気をつけます!」
俺は、彼女にストレスを与えることで彼女の胎内に舞い降りた奇跡の贈り物を、傷つけたりしないようになんでもない風に振舞った。
そうだ、俺は図書館司書で、この人は来館者…。仕事…これは仕事…。
《おくすりです…良ければ、どうぞ。》
なにか察したらしい妊婦は、肩からかけていた小さなポシェットバッグからポーチを取りだし、俺の手に「おくすり」を握らせた。
「えっ…、本当にいいんですか…?」
《ええ、辛い時はお互い様です。ふふっ。》
はにかむように目を細めて笑い、妊婦の彼女はまるで迷子の子供のような俺を見守り佇んでいる。
「……どうもありがとうございます。」
藁にもすがる思いで、彼女がくれたそれを飲むため掌を開くと、そこにあったのは薬ではなかった。
「えっ…これ…。」
薬じゃない…。キャンディ?
《甘いものは万能薬になるんですよ!持論ですけれど。》
《…私の兄もあなたと同じ恐怖症だから、何となくわかるんです。急がず焦らず気ままに治していけばいいんですよ、無理しないで。》
その言葉だけで、背中にのしかかる何かの圧が数段軽くなった気がした。
同時に、彼女の心意気に言葉が出なかった。
またも幸せそうに微笑むと、妊婦はありがとうございました、と軽く会釈をして図書館を出ていった。
俺は、図書館司書として彼女に本を勧めてあげられなかったが、そのかわり彼女の方から人の温かみと優しくて甘いキャンディを貰ってしまった。
早速包み紙をめくって、汚れた手でキャンディを触らないように軽く前歯で咥え口の中に放り込んだ。
「うん、おいしい…。」
奇跡を体の中に宿していると、どうも人間は無意識に人を思いやれるらしい。
彼女の優しさのせいか、はたまたキャンディのせいか、俺の気持ちはまた晴れやかになっていた。
そして、俺は決心した。
ゆっくりでもいいから、この恐怖症と向き合おう。
そしてまた母や姉と普通に過ごせるようになろう、と。
単純かもしれないが、女性である先程の妊婦が放った言葉や行動には、俺にそうさせるだけの力があった。