pacco di fiore

□One
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月の大きく見えたその日、俺は、俺が何年も出会って少しだけそのページを進めた時のまま時間が止まっていた物語を読み終えた。

月はおぼろげに、溶けたガラスのような温かい光で優しく家々を照らし、土手に咲いた、夜風に揺れている野花を抱きしめていた。そんな日だった。

スーパームーンが見えるだとか、雲一つない夜空になるなどとはどんなメディアでも報じられなかった。
その月は俺だけが知っていた、秘密の月だった。そんな日だった。

読み終えた本は、小さな王子さまの話だった。
そしてそれは、俺の手元に渡ってから実に8年もの月日の間、終わらせられないまま、部屋の隅の本棚に居続けた。
俺はと言うと、そんなことになってしまって、本に対してほんの少し申し訳なく思う気持ちと、乗り越えたという一種の達成感に包まれていた。

不思議な気分だ。この梅雨の時期の、いつ雨が降り出すやもわからぬ時間帯に、窓を開けたままそのそばで本を広げるくらいに。
だがお天道様も不思議な気分であったに違いない。なにしろこの日、俺にははっきりと月が見えたのだから。




都心から離れた場所にある小さな図書館。周りは艷やかに濡れた葉を広げる蔓に包まれ、どこへもいけないように縛り付けられているようだ。

俺はちょうど2年前、図書館司書としてこの図書館にやってきた。
こんなへんぴな場所にある図書館がゆえに、人はほとんどこなかった。朝から、勤務時間の終わる夕方まで、俺はいつも一人で本を読んでいた。
まして今は何でもインターネットでなんとかする時代だ、どこか大人びていて、あまり破顔して笑わない子どもたちなんて来るはずもなかった。

ところが、あの月が見えた日の翌日、ここへやって来た男の子がいた。
その男の子は、じめじめとしたこの場所の空気に似合わないほどに爽やかな黄金の髪を輝かせてこう言った。
〈ここで何をしてるの?〉



「…はっ…っ。…夢か…。」

寝起きの倦怠感と浮遊感の中で、先程の男の子が夢だったとわかり、徐々に意識がはっきりとしてくる。

こんな夢を見るなんて。昨日あの本を読み終えたことがよほど心に色濃く足跡を残しているらしい。

「ふふっ…。」

思い出し、思わず笑ってしまう。

あの男の子は…、間違いなくあの王子さまだ。…だとしたら、すぐに手紙を書かなきゃな。


そんな風に考えながら、傍らにおいていた眼鏡に手を伸ばす。

シャツの胸ポケットからメガネ拭きを出し、両レンズを右に3回、左に2回拭く。

そしてようやく装着完了。

「たまには昼寝もいいかも、ちょっとすっきりしたな。」

一人でいるから、いつのまにか独り言を言うのも覚えてしまった。
当然返事はないので寂しいけれど、実はこの緩やかな孤独が好きだったりもした。


『ごめんください、ちょっと道を聞きたいんですが!』


外から大きめの音量で男が話しているような声が聴こえてくる。


「珍しいな…来館者かな?」

だとしたら、たまには図書館司書っぽいことしなきゃな。


もしかすると来館者かもしれないという期待に心拍数が上がりだした。
身なりを整え、机の上に広がった本たちを軽く片付ける。


『ごめんくださーい!…もしかして今日開いてないのかな…。』


依然声は聞こえてくる。なんなら先程よりも大きくなっている。
しかし不思議なことに、一向に入ってくる様子がない。この人は何をしてるんだろう?

気になり、自ら入り口の方まで歩いて行ってみると、スマートフォンを片手に立ち往生している背の高い青年が立っていた。

「大丈夫ですか?さっき声が聞こえましたけど…。」

『ああっ、開いてたんですか!あんまりにも人気がないからもしかして今日は休館日なのかと。』

図書館とはもともと静かで人気があまりないものではなかったかなと思いつつ、
目の前の青年を改めて見てみると、
青年は爽やかな笑顔を浮かべている一方で薄手のパーカーの袖をまくり、
額には大粒の汗を浮かべていてひどく急いでいる様子だったので、反論することはやめておいた。

何も言わないほうがいいよね…。そもそも初対面だし…。


「いえ、開いてますけど、もしかしてお困りですか?おれでよければ聴きます。」

『いいんですか?助かった!実はここを探していて…。』


差し出されたスマートフォンのディスプレイには、昼間に口にするには憚られる文字が映っていた。

【ソウル市テジャン区46_3 ラブホテル “give me"】


「…!」


「…えっ……と…、この先の信号を右に曲がって一つ目のアパートの角を左ですっ……。」


なんだかいたたまれなくて、うつむきながら道案内をした。
こんなに爽やかな雰囲気のある青年が、昼間にラブホテルの場所を聞くだなんて、俺の今までの人生ではありえないことだったからだ。


『お兄さん、ありがとね!ほんと助かった。』

ギュッ(手を握る)


今から女性とまぐわうであろう青年は、先程と変わらない素直で爽やかな雰囲気で、しっかりと俺の手を握り握手した。

そしてそのまま走り去って行ったのだった。


先程までのうたた寝の夢の内容はどこへやら、頭の中はへんぴな場所に一つしかない、''そういった場所''で何が行われるかでいっぱいだった。
そのうちに、もしもその相手が自分なら、と考えていることに気がつくと、どうしようもなく自分が嫌になった。


「ばかばか、想像するなってば…。俺は男!」

不思議に火照る体の熱さを梅雨の湿気のせいにして、俺は図書館へともどった。





夕方。

そろそろ勤務時間が終わる、16時48分になると、おれはいつもその小世界を徘徊した。と言ってもこれも業務のうちだが。


カウンターからみて右手の本棚の本たちから、一冊一冊点検していく。貸出記録の有無から、それぞれのページ数がちゃんと最初のままかどうか、まで丹念に。

誰も来ていないんだから、何も変わらないのは当たり前だし点検しても意味がない、なんてナンセンスなことは言っていられないのだ。これは仕事なのだから。


カウンターから見て極東にあるこの棚は、古い洋書が多くおかれている本棚だ。それゆえこの関内に充満する湿気で、本にも本棚にも虫がつかないように手入れするのは大変なのだ。(しかもあまり読まれていない本だと、空気が中に入らないので湿気が溜まりやすい)


そういえば、
この図書館は、小さくて誰も寄り付かない割に、世界中のコレクターや研究者が血眼になって探すほどに有名な文豪の初版が、出版当時のそのままで残っていたりする。

ここが彼らに見つかっていたら、今頃文学史の進歩へ繋がる場所となっていただろう。

「全部古いけど…これなんか、今から90年も前のイギリスの歴史書だ…。
おれは…英語苦手だから読んだことないな。でもきっと面白いんだろうなぁ…。」

英語ができたなら、
英語で世界史のすべてを自由に理解できて、どんな参考書を買うよりもそれはそれは簡単に学び直すことができるのに!

などと今更高校時代の自分を省みた。


今度は子どもたちに読み聞かせする小さなブース付きの本棚に移った。
ここにもなかなかの名作たちがいる。おれが幼少期お世話になったベテランも数多い。


「【ビロードのうさぎ】、か…。そういえばここに来てから、一度も子どもたちに絵本を読み聞かせたことないな…。」


こんなに面白いのに…。

少し寂しい気分になるのはもはや毎日の習慣になりつつあった。

以前働いていたところは、あまりに大きくて有名で、その上人が多くて、自分の存在なんてまるでそのへんの落ち葉と同じぐらいにどうでもいいものだったはずだ。
だからここへ来た。
子どもたちに絵本の読み聞かせをしたり、本を借りに来た年配の方々と温かいコミュニケーションを取ってみたかった。
そしてなにより、俺は誰かに認められたかった。


けどそれも、また叶いそうにないな…。

「ぁは…っ。なんか涙出てきた…。」


センチな気分になるのだって、きっと梅雨の湿気や暗い空のせいなんだ。

俺は今までこうして生きてきたんだから、いまさら悲しくなって嘆いたりなんてしないさ。


時刻はもう16時59分。そろそろ入り口の鍵を締めに行かなくてはいけない頃だ。

一人なのに、一人だから、誰も他に助けてくれる人がいなかった。


カーディガンを片手に、
夕方の冷え冷えとした空気に身震いしながら、入り口へ歩いていった。


するとその地面には、走り書きのメモとともに、三本の赤いチューリップの花束が置いてあった。
こんな、助けた猫からの恩返しみたいなことがあるだろうか。


でも…ちょっとうれしい。

「誰だろ…?こんなの置く人知り合いにいたかな…。」


しっとりとした冷たい風に吹かれていながら、心のうちは暖かくなってくる。


''泣かないで、雨はきっと止むよ''


とだけ、掠れたボールペンの字で書かれていた。

メモ用紙に残る人の暖かみや、静々と雨粒を受けて控えめに輝くチューリップの美しさが、波紋を作って心に染み渡る。


「三本じゃ花束って言わないか…。ふふ…っ。」


ありがとう、どこかの誰かさん。
ちょっとだけマシになった気がするよ。


湿気ですっかり間抜けな形に変形したメモ用紙が、なんだかやけに大事なものに思えて、メガネ拭きにやんわりと包んで胸ポケットにしまった。



 
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