長編作品

□5等分のフィアンセ
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車内にはバラの花のにおいが立ち込めている。







司が運転する車は、病院の駐車場に停まった。
車から降りると、すぐに建物の中へと入って行った。









受付を済ませ、彼女の病室の前まで来た。
ふーっと息を吐くとノックをする。
中からの応答はなかったが、司は構わず扉を開けた。








病院特有のにおいがする室内に彼女はいた。
人工呼吸器に繋がれた彼女は静かに眠っている。







「よう。元気か?」







人工呼吸器に繋がれているのだ。
元気なはずがない。
それでも司は毎回この言葉を言っている。








「今日はお前の誕生日だな、朱里。お前ももう三十か。いい歳になったもんだぜ」







司はそう言って彼女の腹部にバラの花束を置いた。
三十本のバラの花からは、芳醇な花の香りが立ち込めている。








「あれから十年か。早いもんだ」








ベッド脇にある椅子に座った司は、彼女の手を取った。
ひんやりと冷たい手だが、脈はまだあった。
そう、彼女はまだ生きているのだ。










高橋朱里と出会ったのは、司が大学二年の時だ。
テニスサークルの後輩として入部してきた朱里と意気投合し、二人は付き合うようになった。









朱里は小生意気で、たびたび司とは喧嘩をしていた。
しかし数日後にはすぐに仲直りをした。本来の彼女は穏やかで、争いごとを好まなかった。
ただ、お互い子供だったのだ。








付き合って二年後。
朱里が二十歳の誕生日を目前に控えた日のことだ。







その日は朝から雨が降っていた。
午後になると本降りとなり、視界が極端に悪くなっていた。
そんな中を朱里は一人で歩いており、乗用車に轢かれた。
見通しの悪かったせいだ。
乗用車を運転していた主婦の女も、警察や目撃者の老人も口を揃えて言った。









普段の司ならば、そうだろうなとさほど興味もなく聞き流していた。
しかし、事故に遭ったのは最愛の恋人である。
怒りと悲しみと混乱が入り混じる中、司は朱里が運ばれた病院へと駆け込んだ。
 








手術中のランプが光っている間、司は祈りを捧げ続けた。
神の存在など二十一年間信じたことなどなかったが、この時ばかりは神の存在を信じ、また彼にすがった。








それまで信じてこなかった罪なのか、はたまた初めて信じた功徳なのか分からないが、奇跡的に朱里は助かった。







手術室から出て来た彼女を見て司はそう思ったが、現実は違っていた。
彼女は意識を取り戻すことはなかったのだ。
朱里は植物人間と化してしまっていた。








その現実に向き合うまで、かなりの時間を要した。
彼女が事故に遭ったという知らせ以上に信じられなかった。








 いつか目覚めるだろう――そんな期待を持っていたが、あれから十年以上が経った今でも彼女は目覚めてはいない。








「お互い老けたもんだぜ、ほんとによ」








窓の向こうでは、新たなるビルが着工中だ。
浦島太郎と化している朱里ならば、きっと見たら驚くに違いない。







司は朱里の髪を撫でた。
細い毛はサラサラとしており、以前来た時よりも伸びていた。
それが、彼女が生きている厳然たる証しでもあるのだ。









「朱里。三十歳の誕生日おめでとう。そろそろ起きてもいい頃じゃないか。この寝坊助がよ……」








人工呼吸器に繋がれ、延命治療を施しているのは、彼女の両親としてもまだ諦めたくないからなのだろう。







やり手若社長と周囲からもてはやされ、金の力で何でも買えるはずの境涯になったというのに、最愛の人を起こさせることが出来ないなんて……。








あまりの無力さに司はただ涙を流す以外なかった。
司の目から零れ落ちた涙が、人工呼吸器に落ちていった。


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