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□夢十夜
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 第一夜

こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。

【夏目漱石 夢十夜より】




銀時の声だけが教室に響く。あまり抑揚をつけずに、ぼうっと不確かであやふやなものを優しく撫でるように読めば、自然と静かになる。「もう死にます、」そう唇が動けば、どこかで誰かがひゅっと息を呑む音がした。黒板の前に立ち生徒を見渡すと、どの顔も唇を固く結び、その先を促すかのように顔が前に出ている。銀時の低い声は床を這うかのように続いた。「死にますとも、」
切りの良いところで読むのをやめると、先ほどと打って変わって教室に音が溢れ出す。

「ちょっとこわ〜い」

そう言って笑う女子生徒に銀時は、若さを見つけて微笑ましくなる。ふと隅の方を見ると、高杉が隠しもせずに、大きな口を開けて欠伸をしていた。誰もが羨むであろう窓際最後列の席を獲得した高杉は、教師の目が行き届きにくいのを良いことに、教科書すら開けずに窓の外を見ている。きっと、あと5分もすれば俺につむじを見せることだろう。そう考えた銀時は、しかし、なんとなく、なんとなく、注意するのも気が引けて授業を進めた。

「いま俺が読んだのは夢十夜の最初の部分だ。誰が書いたか分かるヤツいるかー?」

そう銀時が全体に問えば、紀貫之や与謝野晶子など突拍子も無いような答えが返ってくる。思わず、誰も読んだことがないのかと聞けば「初めて読んだー」となんとも気の抜けるような言葉が出てきた。

「作者は夏目漱石。さすが聞いたことはあるだろ」

ワイシャツと共に白衣の袖をまくり、白のチョークで名前を書けば一斉にノートをパラパラと捲る音やカリカリと黒鉛の先を削る音が聞こえる。

「この男と女の関係性はなんだと思う?」

「旦那さんと奥さん!」
「こいびとー」

「じゃあ、状況は?」

「女の人が寝てる!」
「男の人は座ってる」
「寝てる女の枕元で男が座ってる」
「女が死にますとか言ってる!」

好きなように動く口と聞こえるたくさんの返答に手で制止をかける。またチラリと高杉の方に目線をやると、銀時の予言通り、高杉は机とよろしくやっている。昨日は無理させてしまったから仕方ねぇな、と逸れてしまった思考をゴホンと一つの咳払いで端に追いやる。

「それじゃ、次はそのことを考えながらな音読な。4人1組で読めよー」

椅子がガタガタと動く音がして、しばらく大合唱が起きる。高い声や低い声で読まれるソレは、一人一人の口から出た文字が渦を巻くような感覚を抱かせる。同じ言葉が行き交い、その世界線が何本も存在しているかのようだった。銀時は教科書に目を落とす。明朝体の黒字は、真っ白な紙からくっきりと浮き出ているように見える。

「大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。」

昨日は月明かりさえない夜だった。部屋の空気は冷たいのに、俺たちの周りは妙に生暖かい。卵の薄い膜に覆われているみたいだった。
暗い部屋の中で、高杉の瞳はしっとりと濡れている。反射する光なんて何もないのに、その緑色は頼りなく耀う。

「…もうっ、む…りぃ…ぎんっ、ぱ…ひっ、…あ、あ…んぅ、…ぎんぱちぃ…っ…死んじゃうっ…」

俺の下で喘ぐ高杉が素晴らしく可愛い。手の甲を噛みながら、快楽に呑み込まれまいと耐える高杉は何度見ても飽きない。視線があまり合わないのは惜しいけど、それもいじらしくて良い。
俺は口を開けた。高杉は少し困ったように俺を見上げたあと、猫みたいにちろっと舌を出した。俺の唾液が高杉の唇へと、どこか早く行きたそうに、垂れる。真っ赤な舌にじわりと広がる。高杉と俺の唾液が交ざる。ぐちゅり、と挿れなおすと「あっ、」という音ともに唇の端からどっちのものなのか分からない液体が、たらりと顎を伝った。
高杉が今度は恨めしそうに俺を見上げる。
自分のしていることがもっともっと俺の欲を高めていることを、高杉は知らない。
そこから、俺は白くてか細い腰を掴んで__。

「__せんせいっ!銀八先生!」

「…は?」

「目開けながら寝てたの?みんな音読し終わったよー」

突然、銀時の目に生徒の顔が大きく写る。さきほど見ていた世界と今の世界の温度差が酷くて、目眩がした。パチパチと瞬きを二回。ズキズキと痛むこめかみをグリグリと揉む。「変な銀八せんせぇ!」と揶揄う声が聞こえる。一息ついて、黒板を見て、また後ろの方を一瞥した。

彼はまだ、夢の中にいる。





「なにムラムラしてんだよ」

高杉は胡座をかいた銀時の足の上に頭を置いて、そう言った。頭の重みがどこか心地いい。

高杉は度々、俺のもとへ訪れては逢瀬を楽しむ。俺が呼ぶ時もあるし、高杉が気ままに来ることもある。猫みたいに。

「高杉はあのとき何か夢見た?」

「何も。見てねェよ」

それにしても、白昼夢で俺を見るなんて本当に銀時は俺のことが好きだなァと高杉が笑う。くつくつという笑い声と共に震える喉仏を触る。チャイナボーンのように白くて滑らかな肌に指を踊らせると、高杉がほんのりと赤く染まった。

「ダメだな…これからずっと最中の高杉を思い出すわ」

「…その度に勃ってちゃ仕方ねェだろ」

「今日は何とか耐えた」

「…バカ」

長い睫毛で囲まれた綺麗な目と俺の目が合う。
いつもこの体勢だ。高杉が俺を見上げて、俺が高杉を見下ろす。最近わかったことだが、高杉は寄りかかるのが好きらしい。俺にしがみつくのが楽らしい。

そうだ。今夜は上に乗らせてみよう。
頭の中で今夜の情事について考えを巡らせていると、細長い指でグッと鼻を摘まれる。

「何じでんの、晋ぢゃん」

「いやぁ?酷い顔してたから」

俺の下でニヤリと意地悪く笑う晋ちゃんも可愛い。

俺とは違うサラサラの髪の毛を手で梳く。紫立つ黒髪がスルスルと手の中で流れていく。気持ちいいのか、高杉が喉を撫でられた猫みたいに目を細める。その眦を引っ張ってツリ目にしたり、タレ目にしたりする。ふっふっふっと吐息交じりの笑い声が俺の腹をくすぐった。

鼻にちゅっ、と口付けをする。静かな部屋だとやけに音が響いて照れ臭い。冷たい鼻先を甘く噛むと、高杉の透き通った腕が伸びて俺の後頭部を掴む。上から下へ。互いに形を確かめあうように舌を使ってキスをする。上唇を噛んでやれば、ヌメヌメとした高杉の舌が俺の唇を舐める。熱が行き来する。角度を変えて、子供のように何回もねだる。ちゅ、ちゅ、とわざと音を立てればみるみるうちに、青白い頬が染まってじんわりと肌の下の血が透ける。耳まで赤く縁どられていく。可愛い。

宙ぶらりんだった手を、首から肩、肩から胸へと沿わせると「待て」とストップがかかった。

「今日はしねェ…」

「えっ、嘘だろ」

「アホか。昨日の今日で腰が痛いんだよ」

そう言って腰をさする高杉に、お預けをくらうなんて…と、大げさにショックを受ける。

そんな俺を見かねてか、高杉が俺の頭を優しく撫でた。

「いい子、いい子だから、な?」

これではどっちが大人かわからない。それでも、宥めるように頭を撫で続ける高杉にしょうがないと軽く抱きついた。
腕の中で「わっ、」と声がする。とっても可愛い。しばらくすると、俺の背中に遠慮がちに手が触れる。俺をぎゅっと抱きしめた高杉は「ごほーび」と言った。やっぱり、どうして高杉には俺が子供に見えるらしい。それでもいい、高杉の頬に俺の頬をくっつける。じんわりと俺の熱が伝わって、だんだんと高杉の頬も暖かくなる。

幸せとはこう言うことなのだと噛み締めた。


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