Vergiss nicht zu lacheln

□第19話
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 冬も終わりに近づき春の季節が始まろうとする頃だった。
 一台の馬車が、ウォール・シーナの壁を通り抜け、ある場所に向かって走っていた。その馬車の持ち主は、薬剤師のファティマ。車の揺れを感じながら、彼女は窓から外を眺めていた。移りゆく景色を見つめる彼女の脳裏にあるのは、数ヶ月前に出会った少女の顔である。

「珍しいこともあるものですね」

 まるで自分の周りには誰もいないような、そんな静かだった空間に自分じゃない誰かが足を踏み入れる。その人物は、ファティマの目の前に座っている彼女の秘書だ。

「普段、あまり周りの人間に関心を示さない先生が、例の調査兵の女の子と話がしたいだなんて」

「……そうね」

「何か、その子から感じるものがあったのですか?」

「……えぇ」

 兵士でありながらも薬剤師を目指す人間とは、初めて出会った。強い意志が込められた真っ直ぐな瞳は、とても純粋なものだった。そこから伝わる、その者の清らかな心。自分の欲求を満たすためではなく、誰かのために自分の人生や時間を懸けるその姿に心が打たれたのだ。

「……ようやく、見つけたかもしれないのよ」

 この腐った世界を変えられる人間に。
 ずっとファティマが追い求めていた心に。

 だから、会って話がしたいと思った。そんなファティマが目指す先は、調査兵団の本部。そこにきっと、会いたい人物がいるはずだ。

「しかし、会ってどうするのですか?」

「どうするも何も、決まっているでしょう……」

 その直後に発したファティマの言葉に、秘書は大きく目を見開いた。予想外の回答に、信じられないといった表情で自分の上司を見つめる。

「ほ、本気なのですか? でも、彼女は首を縦に振るでしょうか……?」

「さあ……聞いてみなくてはわからないわ。けれど……」

 少しでもあの純粋な兵士は、気持ちが揺らぐだろう。何しろ、元々は兵士ではなく薬剤師を目指していたのだから。早く会って話しがしたい。
 窓の外を眺めながら、ファティマは少しだけ口角を上げた。



***



 最終試験の結果が届いてから数週間が経ち、あっという間に三月がやって来た。
 リノとヴァルトに餌を与えていたエミリは、グッと伸びをして空を仰ぐ。
 試験の結果は予想通り、不合格だった。時間内に課題すら完成できなかったのだから、当然の結果だろう。少し悔しい気持ちはあった。それでも、最終試験を終えた後ほど苦しくはない。逆に心に芽生えたのは、来年また受験して次こそ受かってみせるという新たな目標。
 夢は簡単に叶えられるものじゃないと、改めて痛感した。そして、また一回り成長できた気がする。今回の挑戦は、きっと未来の自分のためになるものだと確信した。

「エミリ、いた!」

 一人で物思いに耽っていると、突然誰かに声をかけられ意識を現実へ引き戻す。兵舎から大きく手を振ってこちらへ駆けてくるのは、二ファだった。

「二ファさん? どうかされたんですか?」

「エミリにお客さんが来たから団長室に来るよう伝えてほしいって、ハンジさんに言われたの」

「……お客さん?」

 自分を訪ねにやって来る知り合いなどいただろうか。しかも、団長室へ通されるほどの人物となると、それなりに権力がありそうな者だ。

(考えられるのは、ホフマン家の人たちだけど……)

 脳裏にエーベルやシュテフィのことを思い浮かべる。しかし、彼らが調査兵団へやって来るのなら、事前に手紙で教えてくれるはずだ。なら一体誰なのだろうか。
 リノとヴァルトにいい子で待っているよう言い聞かせ、エミリは首を捻りながら二ファと共に団長室へ向かった。

「団長、エミリです」

 団長室の扉を数回ノックし、その向こうに来客者と待っているであろうエルヴィンに声をかける。その直後、バタンと大きな音と共に勢いよく扉が開けられ、エミリは肩を揺らした。

「エミリ! 待ってたよ!!」

 顔を出したのは意外にもハンジ。慌てた様子で早く部屋に入るようエミリを急かす。一体何をそんなに必死になっているのだろうか。訳も分からずハンジに促され、「失礼します」と団長室に足を踏み入れた。そして、おそらく例の来客者であろう者を目に映したエミリは、一瞬、息をとめてその人物を見つめる。

「久しぶりね、エミリ」

「…………ファティマ、せんせ……」

 彼女を見るのは最終試験以来、そして、こうして会話を交わすのは、願書を貰いに王都へ出かけたあの日以来だ。
 何故、彼女がここにいるのか。何が目的なのか。理由がわからなくて、エミリは困惑した表情で出された紅茶を優雅に飲んでいるファティマの顔を凝視する。

「エミリ、とにかく座りなさい。ファティマさんが君に話があるようだ」

 そこでエルヴィンに声をかけられたエミリは、ハッとしてファティマの向かいのソファへ視線を移す。そこには、ハンジだけでなくリヴァイも険しい表情で腰掛けていた。

「話が進まねぇ。さっさと座れ」

「あ、はい……」

 いつもと比べ、リヴァイの機嫌が少し悪いように見える。その理由はよくわからないが、おそらくファティマのことをあまり歓迎していないのだろうと推測した。
 リヴァイの隣に腰を下ろし、遠慮がちに真向かいに座るファティマを見つめる。全員が席に着いたのを確認したエルヴィンが、静かに切り出した。

「本日はどのようなご要件でいらしたのでしょうか」

 エルヴィンから当然の質問を繰り出されたファティマは、ティーカップをソーサーの上に戻し、視線をエミリに固定させ、口を開く。

「彼女……エミリと話をするためです。色々と言いたいことや聞きたいことがあったものですから」

 無表情で探るようにエミリを見つめる白髪の老婆は、鞄の中から封筒を一つ取り出しエミリの前へ滑らせた。

「……これは?」

 説明もなく差し出された封筒に、エミリは首を傾ける。封筒のサイズは大きめで、かなり分厚い。一体、中に何が入っているのだろうか。

「先日の試験の貴女の成績よ。解答用紙も入っているわ」

「えっ」

 予想外の代物にエミリは再び動揺を見せる。受験者に知らされるのは、合否のみだ。それなのに何故、ファティマはわざわざ自ら調査兵団へ足を運び、エミリの成績を渡したのか。彼女の行動の意味がわからなかった。

「…………開けても、よろしいですか?」

「えぇ」

 恐る恐る封筒に手を伸ばし、封を開ける。中に入ってある大量の用紙を取り出し、一枚ずつ確認していった。
 成績表には、一次から最終試験までのエミリの点数が記されている。それだけでなく、全体の平均点や順位なども載せられていた。一通りザッとそれらを目に通したエミリは、再びファティマに向き直る。

「…………どうして、私にこれを……?」

 こうして確認しても、やはりファティマの目的はわからない。そろそろ理由を教えてほしくて質問するが、彼女は答える気がないのか、ただ紅茶を味わっていた。

「あのっ」

「この前、私が貴女に言ったこと……覚えているかしら?」

 口を開いたファティマが発したものは、エミリの質問に対する答えではなかった。エミリの問いとはあまり関連性のなさそうなファティマからの質問に、エミリは動揺しながらも答えを考える。

「……あの、それってもしかして、『今のやり方では、試験には合格できない』という……」

「ええ、そうよ。それで、どうだったかしら? 今回の結果は」

 ファティマの言葉に、ズキリと心に鋭い何かが突き刺さる。それを感じながらも、エミリはどう答えればいいのかわからなかった。


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