Vergiss nicht zu lacheln

□第19話
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 エミリが困惑している隣で眉間に皺を寄せるのは、紅茶を片手に足を組んで黙って話を聞いているリヴァイだった。薬剤師の中でも最も権力の持つファティマが、わざわざ調査兵団へ自ら足を運び何の用かと思えば、エミリの傷口を抉るような彼女の言動に苛立ちが隠せない。
 どれだけエミリが悔しさを抱えていたのか。そばに寄り添っていたリヴァイが、彼女の気持ちを一番に理解できていた。
 いつものようにすぐに立ち直った後は、いつものように訓練を繰り返し、休暇を満喫しながらも勉強は怠らない日々を、エミリは過ごしている。努力を惜しまないエミリに、ファティマは次に何を求めているのか。彼女の思惑が全く持って見抜けない。
 隣を見れば、少し顔を下に向けているエミリ。ファティマの問いに対して、何と答えるのだろうか。

「……ファティマ先生の言う通りでした」

 沈黙を破るその声は、いつもと比べてとても弱々しいものだった。

「薬剤師になりたいって気持ちは、誰にも負けないくらい大きいって思っています。けど、やっぱり気持ちだけじゃダメなんだって……今回の試験で思い知らされました」

 優れた薬剤師になりたいのであれば、気持ち以上に膨大な知識が伴っていなければならない。これまで何となくでやって来たものとは訳が違う。

「……何より……私はここまで来るのに、たくさんの人たちに支えられてきました。それは、私がまだまだ未熟だからです」

 膝の上でギュッと拳を作るエミリの心情は、きっといつものように自分の不甲斐なさを感じ、負い目に似たようなものを背負っているのかもしれない。彼女は、そういうクセが付いてしまっているから。

「そうね。それで、その後は?」

 エミリの言葉を否定することなく、再び追い討ちをかけるファティマは、エミリに何か試しているような目をしている。エミリは、それを察していた。だから絶対に動揺は見せない。

「……まだ、わかりません」

けれど、本心は絶対に隠さない。

「来年の試験合格を目標にしているのは確かです。だけど、そのためには今のままじゃダメだってことは……わかっています」

これまでと同じように勉強を進めれば、必ず合格できるという確証はない。また、調査兵団に所属しているため、いつ大きな怪我を負って勉強すらできない体になるかわからない。
そう、エミリに立ち止まっている時間など無いのだ。

「……そこまでわかっていて、まだ薬剤師を目指すというのね。どうして薬剤師になることに、それほどまで執着しているのかしら」

 降り注ぐ言葉の刃。容赦のないファティマの一撃は、エミリの心に確かな衝撃を与えていた。それでも、エミリは折れることなく顔を上げ、ファティマを捉える。

「……それが私の、戦い方だって思ったからです」

 理解されなくてもいい。それでもいいから、せめてこの思いだけは聞いてほしい。
 その一心で、言葉を紡いでいく。

「私は、いつも皆に支えてもらってばかりで……その癖に特に何も返せていません。私は、皆がくれる優しさに、ちゃんと恩返ししたいんです」

 不安な時は、必ず親友たちが寄り添ってくれる。
 挫けそうになった時は、いつだって素敵な上官たちが手を引いてくれる。
 涙を流す時は、リヴァイが頭を撫で、そして抱き締めてくれる。

「だから……もしかしたら、この夢はただの自己満足なのかもしれません」

 そうだとしても、何も出来ない自分の弱さが嫌い。何か恩返しをしたい。いつも支えてくれる皆に、たくさんの感謝を届けたいのだ。

「薬剤師になることは、私の夢です。だけどそれ以上に、私は薬剤師になって、皆の力になりたいんです。
いつも皆がくれる温かさや優しさを、ちゃんと自分の力にして返したい。……だから、私は誰に何と言われようとも、この夢を諦めるつもりはありません」

 何より、今ここで止めてしまえば、それこそこれまでやってきたことが無駄になってしまうから。挫けたって、また前を向いて進むと誓ったから。ファティマに、止めておきなさいと言われたとしても、絶対にその言葉に従うつもりはない。
 真っ直ぐなエミリの思い。それは言葉となって、ファティマの心を一直線に貫いた。淀みのない決意の篭った大きな瞳と真剣な表情、そして、力強い言葉。エミリがどれだけ薬剤師という夢に大きな希望を抱いているのか、どれほど自分を取り巻く人間たちを大切に思っているのかが伝わってくる。
 そして、そこから感じるエミリの大きな可能性。それをこのまま開花させずに終わらせることなどできるはずがない。

(エミリ、やはり私の目に狂いはなかった)

 追い詰められてもなお突き進もうとするその強い信念に、ファティマはここへ来て初めて頬を緩めた。
 笑みを見せるファティマに、その場にいる全員が驚愕する。

「……あの、」

「エミリ、これを見てみなさい」

 戸惑いを見せるエミリの言葉を遮り、ファティマが机に広げたものは、一次と二次試験のエミリの解答用紙だった。

「これを見ればわかるわ。貴女が、この前私が言ったことをしっかりと理解し、勉強方法を変えたのだと言うことが」

「……え」

「試験用に難しく作られているけど、基本的な問題が七割ほどの一次試験は、正解率がとても高かった。二次試験の問題だって、まず大前提として基礎がしっかり身についていなければ解けないようなものばかりだったの」

 そこからファティマが言いたいことは何なのか。エミリは瞬時にそれを察した。
 つまり、エミリが勉強法を基礎に変更したから、それが結果に繋がったということだ。もし、ファティマの言葉を無視してあのまま応用問題を解き続けていれば、それこそ解ける問題も解けなかっただろうし、当然最終試験まで進むことはできなかっただろう。

「私が出したヒントから、ちゃんと答えを見つけることができたから、この結果があるのよ」

「……今の、結果?」

 ファティマの言葉を受け止めたエミリは、自身の大きな瞳を揺らし、目の前で笑をたたえているファティマを見つめた。
 ようやく、自分の努力が認められた気がした。この気持ちを表現する言葉も術もわからないほどに、心の中は満たされている。

(……そっか……)

 そこで一つ気づいたことがある。

(わたし、やっと今……走り出すことができたんだ)

 夢を見つけ、目標に向かうことが始まりではなかった。薬剤師試験への挑戦、それこそが夢の始まりなのだということ。
 戦いに挑む勇気と決意から、手を伸ばしても届かなかった結果に涙し、それに臆せず再び前を向いたその瞬間……それこそが、スタートラインから前へ踏み出したという証なのだ。

「……私、まだ始まったばかりなんですね」

「ええ、そうよ。そして、始まったばかりだからこそ、まだ引き返せる」

「……え」

 ファティマから降りかかった、予想外の言葉。エミリの顔から笑みが消え、段々と深刻なものへ変わっていく。それは、静かに話を聞いていたリヴァイたちも同じである。

「引き返せるって……どういう意味ですか?」

「貴女に薬剤師を目指すなと言っているわけではないわ。その逆よ」

 逆とはつまり、薬剤師を目指し続けなさいということになる。しかし、それではどこか腑に落ちない。もっと違う、別の意味を求めているように感じた。答えがわからないまま、黙ってファティマの回答を待つ。

「エミリ、兵士を辞めなさい」


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