Vergiss nicht zu lacheln
□第12話
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グツグツとスープが煮える音。
ザクザク、トントンとキャベツが刻まれる音。
ふわりと香ばしい焼き立てパンの匂いが鼻をくすぐり、エミリはギュルルとお腹の虫を鳴らせた。
台所には料理をするカルラの後ろ姿がある。エミリの膝の上には、もうすぐ5歳になる弟のエレンが遊び疲れて眠っていた。そんなエレンの頭を撫でながら、エミリは再びお腹を鳴らせる。
「うぅ……お腹すいた〜」
「ふふ、もうちょっと待っててね。夕飯、もうすぐ出来るから」
「は〜い!」
もうすぐ出来るというカルラの掛け声に、エミリは大きく返事をして大好きな母親の手料理を待つ。
けれど、流石にやる事が無くて暇だった。エレンが膝の上にいるため動くことも出来ない。プラプラと足を動かし、ぼーっと天井を見上げていると、本を手に持ったグリシャが部屋へ入ってきた。
「あ、父さん!」
「エミリ、帰っていたのか」
「うん! 父さんはおしごと?」
「ああ。明日は、ローゼの診療所に薬を届けに行かなくてはならないから、その薬を作っていたんだ」
「へぇ〜!!」
まだ8歳のエミリに医療のことは難しく、よく理解できていないが、グリシャの仕事がとても大変で大切だということは、何となく分かっているつもりだ。
「ねぇねぇ、その本はなあに?」
そこでエミリの興味は、グリシャが持つ分厚い本へ注がれる。チラリと見える本の題名に目を通すが、初めて聞く単語に首を捻る。
「や、くぶつ……ちりょ、う……? なにそれ……」
「薬物治療。まあ、簡単に言うと薬の作り方や薬草の効能について書かれているんだ」
「……へぇ〜?」
また難しいワードがグリシャの口から発せられ、エミリは更に首を傾ける。
グリシャはそんな娘の頭をわしゃわしゃと撫で、席に着くと本を開いた。
「エミリにはまだ難しいかもしれないが、薬というのは、普段エミリが森でよく見る草花から出来ているんだ」
「そうなの?」
「ああ。例えば、皆がよく知るタンポポも熱を下げる効果があるし、サフランは気持ちを落ち着かせてくれるんだ」
「きもち? おくすりは体をなおすものじゃないの?」
「心も立派な身体の一部なんだ」
グリシャの答えの意味が解らず、エミリはう〜んと唸る。
「まだエミリには分からないかもしれないな」
「父さんって難しいおしごとしてるんだね……」
本の中を覗いて見ても、何が書いてあるのかさっぱり分からない。段々文字を追うのも面倒になってくる程だ。
「ふふ、エミリ。父さんはね、とってもすごいお医者さんなのよ」
そこに、料理する手を動かしながら二人の話を聞いていたカルラが、会話に参加する。
「まだエミリが生まれる少し前に病気が流行ってね、その病気にかかった人達は助からないんじゃないかって言われてたの」
「……ねぇ、もしかして母さんもその病気にかかったりしたの?」
「そうよ。でもね、誰も作れなかったその病気の薬を父さんが作って、みんな助かったの」
カルラのその話を聞いたエミリは、目を丸くする。そんな彼女の瞳はキラキラと輝いていた。そこには、グリシャに対する尊敬の念が込められている。
「へぇぇ!! 父さんすごいね!!」
もし、グリシャがいなかったら、その薬を開発していなかったら、謎の流行病を患ったカルラは生きていなかったかもしれない。エミリもエレンも、生まれてこなかったかもしれない。
幼いエミリでも、それを十分に理解した。
「あ! もしかして、母さんは父さんに助けてもらって、父さんのこと好きなったの??」
「もう、エミリったら……!」
遠慮のないエミリの言葉に、カルラは少しだけ恥ずかしそうに頬を染めて笑う。わざわざカルラの口から答えられなくても、表情を見れば十分だった。
カルラにとってグリシャは、愛する人であるだけでなく命の恩人でもあるのだろう。
エミリは何だか、それを嬉しく思う。
「お医者さんかぁ……わたしにもなれると思う?」
「あら、エミリも父さんと一緒でお医者さんになりたいの?」
「う〜ん……まだわかんない」
だけど、興味はあった。大好きな植物から薬ができる。新しい発見に胸のドキドキは今も収まらない。
美しく綺麗に咲く花が、強く大きく大地で育つ草や木が、人々の命を救う。なんて素晴らしいことなのだろう。
自分もそんな世界に触れてみたいと思った。
それが平和な日常の中で見つけた、エミリの小さな小さな夢のカケラ。
そして、そのカケラは、後に大きな夢の原石となり、磨いて、いつしか美しく輝く宝石となるのだろう。
***
窓の外から聞こえる小鳥のさえずりに、エミリはゆっくりと重たい瞼を上げる。数回、瞬きをしてからむくりと状態を起こした。
「…………夢、か……」
とても幸せな夢だった。これは、エミリが小さい頃にあった些細な出来事。いや、今となっては、些細なんかでは済ませられないこの記憶は、大切な宝物だ。
優しい両親と愛しい弟に囲まれた幼少の自分は、とても幸せそうだった。
今も勿論、幸せだ。素敵な仲間に出会うことができたのだから。
けれど、今と昔の幸せは、言葉にすれば同じようなものに聞こえるが、全く形の違うもの。
「……エミリ、おはよう」
物思いに耽っていると、エミリの前のベッドで眠っていたペトラが櫛で髪を解いていた。
「おはよ、ペトラ」
いつもならそう言って笑いかけるが、それが出来ない。
理由は簡単である。今日は壁外調査の日だからだ。
やはり朝から憂鬱だった。他の同期達も目を覚まし支度を整えているが、部屋を包み込む空気はとても重たいものだった。
「エミリ、大丈夫……?」
「……うん」
ぼーっとしたままのエミリに、ペトラが心配そうに顔を覗き込む。
今回は、エミリが兵団に復帰してから初めての調査だ。
一ヶ月、ペトラに付き添ってもらい鍛錬を続けた結果、以前のように訓練について行けるようにはなった。しかし、それだけではいけない。壁外から無事に帰還することが出来て、初めてブランクを乗り越えたということになるのだろう。
「……正直、ちょっと不安かも。だけど……」
まだ、"自分にしか出来ないこと"を見つけていない。このまま死ぬわけにはいかないのだ。
例え技術が劣っていても、遅れをとっていても、立ち止まっている暇はエミリにはない。
そして何より、エレン達を置いて、逝くわけにはいかない。
「絶対、生きて帰ってくる。何がなんでも、絶対に……!」
「うん!! 一緒に生きて帰ろう! そしたら、また二人でお出かけしよう!!」
ペトラと手を取り合いギュッ握る。
誓いを立て、お互いの無事を祈るかのように……強く、優しく──