Vergiss nicht zu lacheln
□第4話
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首を押さえながら馬小屋へ向かうハンジの後ろ姿に、心の中で真っ白なハンカチを振りながら見送る。
しかし、困ったことになってしまった。
(えっと……どうしよう……)
そう、リヴァイと二人きりになってしまった。正確には二人と一頭だが……。
二人の間に会話は一切なく、サワサワと木々が揺れる音しか聞こえない。
気まづい、何を話そうか。エミリは、話題探しに必死になっていた。
そして、思い出す。あの日、彼に助けられたことを……。
(……そういえば、お礼、まだ言ってなかったんだ)
ちゃんと言わなきゃ。
エミリは口元を綻ばせ、そして、リヴァイに向き合った。
「あの、リヴァイ兵長」
「何だ」
リヴァイはチラリとエミリに目を向け、そして、また視線を前へ戻す。そんな彼は、相変わらず無表情で感情が読み取れない。
「私、兵長にお礼を言わなきゃとずっと思ってまして……」
「礼?」
昨日今日、出会ったばかりでエミリと会話をしたのもこれが初めてだ。なのに、何故礼を言われなくてはならないのか。リヴァイは、目を細め首を傾げる。
「……壁が破壊されたあの日、私はリヴァイ兵長に助けてもらったんです」
今でも鮮明に覚えている。自由の翼を背負い、深緑色のマントを靡かせ、立体機動装置を自在に操り、巨人に立ち向かって行く姿を……。
「男の子を庇って、巨人に捕まりそうになった時……兵長が巨人を倒してくださったんです」
「……」
エミリの話に耳を傾けながら、リヴァイは二年前の惨劇を思い出す。
あの日、リヴァイは壁外調査には参加していなかった。
というのも、その頃はまだ地下街から調査兵団へ入団したばかりだった為に、彼を信頼していない者の方が多く、上からの指示で彼を壁外調査に出すことは許されなかった事が、何度かあった。
あの日も多くの犠牲があり、兵士達は皆、満身創痍な上に民衆からの非難の声はいつもより多く、精神的に追い詰められたことだろう。
そして、不運とは続くもの。壁が破壊されたのは、その後だった。
壁外調査から帰還してきたばかりで、負傷兵が多いのは勿論のこと、体力も回復していない状態であるため、すぐに動けるような体勢では無かった。
それでもそのまま兵舎に留まっているわけにはいかない。たまたまキースが不在だった為に、代わりに当時分隊長であったエルヴィンが指揮を執った。
動ける者は、マリアの巨人の討伐。それをしながらマリアの住民を守るよう指示を出され、その際、リヴァイも出頭することとなった。
駆けつけた時は、既に多くの被害が出ていた。街の面影など一つも無く、瓦礫に潰されている者、巨人に食われた者……建物も道も皆、鮮血に染まっていた。
壁外と変わらない、地獄の世界。それを目にした途端、リヴァイは顔を顰めた。
『エミリ!』
そこで聞こえた青年の声に意識をそらされる。
リヴァイが視線を移すと、目に飛び込んで来たのは巨人から男の子を守ろうと身を呈する少女の姿。巨人の手は、少女の目の前まで迫っていた。
リヴァイは、立体機動を巧みに使い、そして、一直線に項を切りつけた。
倒れた巨人の上に着地し、振り向き逃げろと声を上げる。
そのまま子供を抱き上げ、少女は走って逃げて行ったが、彼女は肩越しにリヴァイを見やる。
少女とリヴァイの視線が交わる。
彼女の瞳は、吸い込まれるような、とても澄んだ瞳を携えていた。
リヴァイは、少女が無事に青年の元に辿り着いたことを確認した後、自身の任務に戻ったのだった。
巨人から守ろうと子供の元へ駆けつけた少女の顔は、何故だか分からないが、今でも覚えていた。
茶色の髪から覗く琥珀色の瞳からは、儚くも強い意思があるように感じられた。
そして、思い出す、昨夜の宴とさっきのハンジの言葉。
エミリはあの日の惨劇を受けていると。確か、少女の名もエミリだった。
あの時の少女と、いま目の前に立つ新兵の姿とが重なる。
「……お前、あの時のガキ共か」
驚いたように目を見開くリヴァイに、エミリもまさか彼が自分のことを覚えていてくれていたとは思わず目を丸くして見せる。
「覚えて下さっていたんですか……?」
「……まぁ、な」
住民達は、ただただ助かりたい一心で巨人から逃げていた。それだけだった。
その場に居合わせていた駐屯兵もまた、巨人の恐怖に心が支配され、自ら立ち向かおうとする者は見られなかった。
そんな中、エミリが子供を守ろうとする姿は印象的で、だから、記憶にも残りやすかったように思う。
「……お前、何故あの時、あのガキを助けに行った?」
気づけばそんな質問を口にしていた。
リヴァイはエミリの返答を待つ。しかし、なかなか返事のないエミリを不思議に思い、彼女へ視線を移した。
エミリはキョトンとした顔で、僅かながら身長が上のリヴァイを見上げているだけ。
「おい」
「あ、すみません……まさか、そんな質問されるとは思ってなくて」
エミリはふにゃりと困ったように微笑むと、橙色に染まり始める空を見上げて言った。
「特に、理由なんて無かったと思います。『助けなきゃ』って思ったら、気づいたら身体が勝手に動いていた。それだけです」
さも当然のことのように答えるエミリだが、それはなかなか出来ない事だろうに。
人類を破滅へ導こうとする巨人は、人間にとっては悪魔のようなもの。『助けなければ』と思っても、そこで踏みとどまってしまうのが人間という生き物だ。何故なら、自分の先の未来が見えてしまうからである。
"死"への恐怖。
体が受けるものは、想像を絶するほどの"痛み"。
それらに打ち勝つには、相当な度胸が無ければ巨人に立ち向かうことは出来ないだろう。
エミリの相棒となったリノが、彼女の方へ擦り寄る。エミリは、それに嬉しそうに笑ってリノの名を呼び、優しく撫でていた。
その微笑ましい姿に、リヴァイは、リノがエミリを選んだ理由が、少しだけ解ったような気がした。
「……変わった奴だな」
「え」
リヴァイは一瞬だけ、僅かに笑みを見せる。しかし、エミリはそれに気づいていない。
『変わった奴』
それは自分に言っているのだろうか。だとしたら、一体何処が変わっているのだろう。
エミリは、疑問符を浮かべ、ポカンとしながらリヴァイを見上げることしかできない。
「あの、兵長……?」
「エミリ……だったか」
「あ、はい!」
「そいつを……リノを頼んだぞ」
リノを見ながらそう言ったリヴァイは、エミリの頭にポンと手を置き、そのまま行ってしまった。
「え」
まさかリヴァイにそんなことをされるとは思わず、エミリは、素っ頓狂な声を出す。
リノが人間に懐かない理由。それは、そもそも人間が馬を壁の外へ出したことが原因でもある。
巨人と戦うために、自由のためにそれは必要なことだ。
それでも、リノから見たら人間も脅威に思えたのかもしれない。リノに触れようとした兵士を、警戒しながら敵意を持った瞳で見ていたことを覚えている。
しかし、エミリにはそれが無かった。今、リノを任せられるのは、彼女しかいないのだ。
「何だったんだろう……」
エミリは、リノと顔を見合わせる。
入団式で姿を見かけた時は、怖い人なのかと思っていた。しかし、あの日助けてもらったことや、今回、エミリに見せたリヴァイの表情や瞳は、とても優しく温かいもので、そこからは彼の人柄を少しだけ感じた。
(……兵長って、実はとても優しい人なのかも)
リヴァイが歩いて行った方向を見ながら、エミリは、頭を押さえ暫くずっとそこに立っていた。
リヴァイが手を置いた場所は何故かとても温かかった。