alchemists

□菊池寛の場合
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「なぁお前さん、名前教えてくれよ」
「別に司書で支障ないですよね」
「あるさ、好きな奴の名前は知りたいし呼びたいだろ」
「はぁ」

好きとはまぁ、よく言ったもんだ。まさかこの人がこんなことを言うなんてと思う一方で、この人なら言いかねないなとも思う。館内には美少女好きを公言している先生もいるくらいだし、別段それを悪いことだとは言わないが、これは言葉通りに受け取ってもいいのだろうか。それともからかわれているのだろうか。たぶん後者だろう。この人だし。

「はぁ、って、それだけかよ」
「いや、まぁ、驚いてますけど」
「本当かぁ?そのわりには全然反応しないな」
「先生なら、そこらへん歩けば困らないんじゃないかなぁ、と」

最近ようやくおいでになった親友さんとでも行けば確実だろう。館から遠くはなるがその手のミセもあるらしいし、この人は今生でもお金には苦労していないはずだ。行きたきゃ行って来ればいいのに、と思う。もちろん口には出さないが、そこらへんは勝手にどっかでやっててくれ。自分は巻き込まれたくない。そういう面倒ごとは御免だ。

「何も自分じゃなくたっていいでしょう」
「俺はお前じゃなきゃ嫌だ」

きっぱりと言い切るその姿に溜息しか出ない。ちょっと関心もするけれど。
だってこうもはっきり言えるなんて自分にはできないだろう。したこともないのでよくわからないが、そもそも価値観というか、時代的な差異はあるのだろうか。
ともかく自分は巻き込まれたくないということははっきりさせておかなければ。そもそも自分の名前を教えることは推奨されていないし、教えても悪用はされないと思うが、なんとなく教えてしまえば最後のような気もする。

「嫌って……先生、子供じゃないんだから」
「やだったらやだ」

こうなったら梃子でも動かぬと言わんばかりに相手は腕を組んだ。黙るのだろうか。いや、黙られたら自分も黙るだけなのでいいのだが。これで機嫌を損ねられても困る。

「先生」
「なんだよ、名前も教えたくないってか」
「そういうわけじゃないっすけど」
「じゃぁ教えてくれたっていいだろう」
「そういうわけにもいかないんすよ」

推奨されてないんで、と言えばなんでだよと返ってくる。まぁ、変だよな、とは思う。名前がわかっていた方がやりやすい場面もあるだろう。それでも推奨されないのは万一を恐れているのだろう。情とか、なんかそんな感じの、目には見えないものを。
相変わらず納得してくれない相手に、どうしたもんかと内心頭を抱える。面倒だ。ものすごく。慣れてないことはしたくないし、言葉遊びで絡めとられるなんてことがあれば同僚に笑われてしまうだろう。
どうにか気を逸らせないかと口を開く。

「仕事手伝ってくれないならチェンジしますよ」
「はぁ!?手伝ってんだろ!」
「今めちゃくちゃ邪魔してますから」

手は止まってるし嘘じゃない。気が散るのも本当。
相手の厚意に甘えて助手をお願いしていたのだが、こんな下心があったのかと思うと前の先生に変わってもらった方がいいのかもしれない。本人は嫌がるかもしれないけど、給料に色を付けると言えば断らないはずだ。

いよいよ眉を寄せた相手に向かって溜息を吐く。今度は隠さず、盛大に。
こういうのは慣れてないし苦手だし第一面倒だから避けてきたというのに。ここにきてまでそういうことに巻き込まれるとは思いもしてなかった。本当になんで自分なんだという疑問すら拭えてないので大変居心地が悪い。
相手があんな表情してるのも、慣れなくて嫌だ。いつもはさばさばしててカラッと笑ってるくせに、嫌だって匂わせるだけで引いてくれてたくせに、こんな引きずられると自分が悪いのだろうかと思ってしまう。

そこで会話が途切れたのもいけなかった。一時間まではなんとか仕事を進めていたけれど、腕を組んだままこちらを見てくる相手が視界に入るたびに罪悪感が心に突き刺さる。次第に背も丸まってきてしまって、とうとう顔が机にぶつかりそうなぐらいにまでなってしまった。
ちなみにその間相手は全く喋っていない。まさしく「くちきかん」だ。

「…俺は司書です。司書は司書っすよ」
「……」
「あぁもう!あんた子供か!?ハルだよ!これでいいか!!」

本名じゃない、いわゆる通称というかあだ名というか、同業者間で使う名前だ。館内にいる間は「特務司書」は自分だけだが、報告会などではその司書ばかりいるのでつけられた名前。
これなら本名じゃないし、教えたって大丈夫だろう。まさか神隠しをするわけでもあるまいし。
自分がとうとう口を割ったことで相手は勝ったと思ったらしい。ぱぁっと効果音が付きそうな笑みを浮かべてハル、ハル、と繰り返している。そこまで嬉しそうにされるとそれはそれで気恥ずかしくて仕方ないのだが、これがもしばれたらと思うと気が重い。
同業者からからかわれることは必至。下手すれば注意を受けるかもしれない。だって推奨されてないし。

「お前さんの名前、知ってるのは俺だけだよな?」
「文豪の方々の中ではそっすね」

そう言うと、またちょっとムッとした顔になる。だからどうしてそんなに子供っぽいんだと呆れ果てるが、この人の名前なんて自分よりもよほど知れ渡っているだろう。どうしてそんなに名前に拘るんだと問いただしたい。いや、それよりも早く相手が忘れてくれることを願った方がマシか。

「他は誰が知ってるんだ?」
「他……さすがに館長と他の同業者は知ってますよ」
「ふーん」
「ふーんって…アンタねぇ」

思わず責めるような声音がでた。さすがに失礼だったかと相手の顔色を伺うと全く気にしていないらしい。いつも通りの、カラッとした感じだ。先ほどまでの不機嫌さはもうどこかに吹き飛ばしてしまったらしい。むしろ上機嫌で、鼻歌を歌い出しそうなくらいだ。
本当に子供みたいだ。いつもは大人の余裕みたいなものを見せているくせに。

「他の文豪には教えんなよ。妬くから」
「うっわ本当に面倒な人だな」

取り繕うのも面倒になって思ったことをそのまま口に出した。それでもこの人は怒らないし、ちょっと驚いたような表情をしたあとはすぐに豪快に笑い出す。

「お前さんがそんな風に軽口を叩くなんて思ってもなかったぜ、ますます好きになった!」
「いや、好きになられても…」
「ハル、好きだよ」
「そういうのは利一先生や川端先生に言ってください」
「言ってる言ってる!」

言ってるんだ、この人。




菊池先生:好意がオープンな人。弟子たちにも同様。司書に対しては独占欲ものぞかせる。
ここの司書:ちょっとチョロい。基本的に流されてくれるが面倒ごとは避けたい。
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