浅草火消しの御前様
□弐
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紺炉は宴の準備があるからと、盆を持って退室した。
紅丸は一旦自室に戻って櫛箱と、懐に簪の収まった箱を携えて縁側から声をかける。
「おい太閤秀吉。着替えたかァ?」
「はい」
太閤秀吉の許可を得てから部屋に入る。
太閤秀吉は元々着ていた着物に身を包んでいた。青藍色の訪問着に山吹色の帯を花文庫結びにし、緋色の帯締めと桃色の帯揚げでまとめている。布団と、浴衣を入れた乱れ盆は押し入れにしまってある。
「あの。布団や浴衣などは本当にそのまま私が使って良いんですよね?」
「あァ。俺らからの快復祝いと入隊祝いだと思っときな」
「ありがとうございます」
太閤秀吉は深々と頭を下げた。いちいちこんな風に丁寧に礼を言われては、むず痒くて仕方がない。
「ホラ」
紅丸は櫛箱と簪の箱を傍らに置き、櫛箱から手鏡を取り出して太閤秀吉に渡した。手にした櫛を見せる。
「結ってやンよ。座りな」
「えっ。自分でしますよ?」
「ンだと?」
紅丸は盛大に眉間に皺を寄せた。
「俺ァな、毎日チビ共の髪の毛結ってんだ。お揃いにしてやろォか?」
「スミマセン。別の髪型にしてください」
太閤秀吉は後ろを向いて畳の上に座った。足を横に崩す。
紅丸も太閤秀吉を後ろから囲うように足を広げて座った。太閤秀吉の黒髪に触れ、毛先から丁寧に、大切に櫛を通していく。
静かで穏やかな時間が流れた。
「新門さん」
「ん?」
「本当に、何から何まで色々とありがとうございます。これからも宜しくお願いします」
太閤秀吉は手鏡越しに挨拶した。紅丸も柔らかく応える。
「おう」
「あ」
「どォした?」
紅丸は手鏡を覗き込んで太閤秀吉と眼を合わせた。太閤秀吉はハッとしたように口許を手で覆っている。
「私、新門さんの部下になるんですよね。これからは私も若とお呼びしますね」
「ア゛?」
紅丸は、すっとぼける太閤秀吉の髪を一房グイッと引っ張った。眉間に皺を刻む。
「舐めてんのかテメエ」
「な、舐めてませんよ。相模屋さ…、相模屋中隊長もヒカゲちゃんもヒナタちゃんも、新門さんの事『若』って呼んでるじゃないですか」
太閤秀吉は無理に首を傾けさせられたまま説明する。
「新人の私が“社長”の事を『新門さん』なんて呼べませんよ」
「ふざけるのも大概にしろ」
紅丸は舌打ちした。今度は別の髪を一房取って、太閤秀吉の頭を逆方向に傾けさせる。
「では『新門さん』のままで…「馬鹿かテメエ」」
「…」
太閤秀吉は黙った。頭を正面に戻す。
「…でしたら、何て呼べば良いですか?」
「名前で呼べ」
「…紅丸大隊長」
「阿呆か」
「大隊長」
「“名前で”っつったろォが」
「…貴方は上司でしょう。第7特殊消防隊の大隊長ですよね?」
「その俺の命令が聞けねェってかァ?」
太閤秀吉の髪をサクサクと編み込んでいく。
「横暴です。パワハラで訴えますよ?」
太閤秀吉は手鏡越しに紅丸にジト眼を向けた。紅丸は鼻で笑う。
「ハッ。その前にグズグズに蕩かしてやンよ」
「…セクハラも追加ですね」
「煩ェ」
紅丸は最後に意を決して簪の箱を開けた。1輪の大振りの白薔薇を太閤秀吉の髪の左側にそっと挿す。
「ホラよ。完成だ」