浅草火消しの御前様

□序
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「…冷てえェなァ」

 紅丸は左の手のひらで無遠慮にベタベタと触った。彼女を覆う氷は己の発火能力でも融けず、ひびすらも入れられなかった。

「金剛石でもあるめェしよォ。ホントどォなってんだ」

 2年前の浅草の大火災で紺炉の開けた大穴から出土した彼女は、そのまま浅草火消しの詰所、現在の第7特殊消防隊の詰所に運ばれた。全身氷漬けの若い女など、前代未聞である。

「お前ェに触れてェ。声が聞きてェ。笑顔が見てェ。――って、俺の我儘なのかァ?」

 紅丸は溜め息をついた。この溜め息ももう何度目か。きっと何千、何万回を超えていようとも、止まる事はない。己の奥底にうねる情念が抑え切れない程に大きく渦巻いて、少しでも本懐を遂げたいと乞い焦がれ、彼女の一切合切を求めて溢れ返っている。

「俺にとっちゃア御大層な願いになっちまうのかァ?」

 ここは詰所の奥の奥、元々は蔵だった建物だ。滑らかな直方体の氷の周りを注連縄と紙垂で囲ってそれとなく聖域っぽくしただけの、彼女の部屋だ。

「なあ」

 紅丸はコツンと額を氷にくっ付けた。彼女の瞳は固く閉ざされたまま、ピクリとも動かない。

「いつになったら眼ェ覚ますんだァ?」

 熱烈な視線を送る。この熱で融けてしまえばいいのに。

「早く起きろ」

 指先に力を込める。氷に阻まれた距離がもどかしい。

 室内は氷があるせいか少し肌寒い。時間があれば彼女に会いに来ている自分は相当重症だ。

「なあ、」

 本当は氷の中で既に亡くなっているのかもしれない。しかし炎で融けない氷が存在する事に、紅丸は一縷の望みを懸けている。

「……」

 蔵に近づく気配を感じて、紅丸はスッと彼女から離れた。いつものように袖の中で腕を組む。直後に蔵の扉から中へ影が入り込む。

「若。ここでしたか」

「紺炉か」

 彫りの深い壮年男性が扉から顔を覗かせた。紅丸は視線だけを後ろに送る。

 紺炉は封筒を示した。

「結果が出やした」

「見せろ」

「へい」

 紺炉は一礼して蔵の中に入った。下駄を脱ぎ綺麗な木目の床に上がる。のしのしと紅丸に近づき、ちらりと氷漬けの女を見やった。

 先日、やっとの事で紅丸が削り取った氷の角は修復もされずにそのままだった。どうやら自己回復機能は備わっていないらしい。

「こちらです」

 両手で長方形の茶封筒を紅丸に渡す。現代的な科学班のない第7特殊消防隊は、水の分析を第5特殊消防隊に依頼した(膨大な調査費を請求されたが、言い値で支払った)。

 紅丸は封を切った。中身は紙切れ1枚。きちんと第5の割印がしてある。あの高飛車で高慢ちきな女は気に入らないが、科学の腕は確かなようだ。

 氷は本体から離れると、自然と融けて水となった。乾いてしまえば跡形もない。

 紺炉はすぐさま氷を瓶に入れて回収した。水となったその成分を第5に調べさせた。

 結果。

「……」

 調査書を一通り読んだ紅丸は紺炉に押しつけた。顎に手を添えて、彼女を探るような眼つきで見やる。

 紺炉も調査書を読む。

「…これァ、」

 驚いた顔で氷を見つめる。

 氷の成分は4種類。老年男女と中年男女の体液だ。そして中年男性は、老年男女の息子だ。

 紅丸は呟く。

「…何者かが家族を使ってコイツを氷漬けにしたか、あるいは、コイツ自身が家族を使ったか、のどっちかだ」

 舌打ちする。「胸糞悪ィ…」と頭をガシガシと掻く。

「…まるで人体発火の逆のような印象ですね」

 人間の身体を氷に変えて人を冷凍保存する。彼女を守るために誰かがそうしたのか、彼女自身が己を守るためにそうしたのかでは、意味が違ってくる。

「どっちにしろ、彼女自身が目覚めねェとどうにもならねェですね」

「ああ」

 紅丸は溜め息をついた。「クソ…」と溢す。

 紺炉は苦々しく顔を歪める紅丸と、氷漬けで眠る女を見やった。才能溢れる若き火消し若頭の恋路は、あまりにも険し過ぎる。

 重苦しい空気を纏っていると、蔵の外から軽快な足音が2つこちらに近づいて来た。
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