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□君の唇から
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駅の近くにあるコーヒーチェーン店に入り、店内を見渡す。視線が辿る先にお目当ての後ろ姿を見つけてそっと近づいた。


5人掛けのカウンターの左端に座っていた彼女は、隣に座ろうとした私をちらりと見遣って、すぐに手元の手帳に視線を戻した。先程よりも心無しだが彼女の身体からは緊張が見て取れる。それに小さくため息を溢した。


賭朗内でコーヒーが飲みたいなどと口にしてしまっては命に関わるので出来ないが、コーヒーを飲む事は嫌いではない。偶々、立ち会いまでの時間を持て余し、入ったのがこの店だった。


それだけの筈なのに。席を探していた私に、もう出るからと場所を譲ってくれた彼女に見惚れたのは1ヶ月前。その日から、時間があるときは気付けばこの店に足を運んでいた。


彼女を見つけては近くに座る事しか出来ない自分に嫌気が差すと同時に、焦りを感じていた。


それはそうだ。声も掛けないのに、顔を合わせる度に隣に座る得体の知れない男に警戒心を抱かない女は珍しい……現に彼女だって、荷物を片付けようとしている。早く声を掛けなければ。


「良かったらこれおひとつ如何ですか?」


今まさにコーヒーを飲み干そうとしていた彼女に話しかける。きょとんとした顔を見せた後、差し出されたマドレーヌを見た彼女は困ったように笑った。


「えっと……私ですか?」

「はい。貴女です。」

「急にどうして。」

「少し前から貴女の事を見ていました。お近づきになりたいと思って……マドレーヌお嫌いでしたか?」

「好きですよ。」


早口に捲し立てた私に、困ってはいるが先程よりも少しだけ柔らかな笑顔を見せた彼女は、そっと手を出しマドレーヌを受け取った。


律儀に隣に座りなおした彼女を見て、夢にまで見たこの瞬間を噛み締めた後、表情を引き締めた。


「お名前伺ってもいいですか?」

「名字 名前です。」

「名前さん……と呼んでもいいですか?」

「いいですよ。」

「私は、弥鱈です。」


弥鱈さん、と小さな声で呟いた彼女を見て、引き締めたばかりの表情を緩めてしまう。


「名前さんはコーヒーがお好きなんですか?」

「そうですね、好きです。」


にっこりと笑って答える彼女に、そろそろ仕事に戻りますと言われるまで好きな物を聞き続けた自分に苦笑しながら、何時もよりも軽い足取りで立ち会いに向かった。




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