ラブリーベイベー

□ラブリーベイベー 4
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左、左、右‼

左手でジャブをおくり、腰を回して右ストレート!

「good!」

今度は赤いミットが気紛れな動きであたしの顔面を襲う。

その手の動きに合わせて、スウェーする。
(ディフェンス。上体を反らす)
つい、下半身がよろめいてしまう。

「ガード!下がってる!ステップは?忘れたの?ほうら、踵がついちゃってるわよ!」

シッ!

ナンシーの唇から、短い呼吸音が吐き出されたと同時に繰り出されるハイキック。

それは、あたしの頭上ギリギリで空を切り、ナンシーの身体は踊るように左足を軸に回転し、元のポジションに右足を着地させる。

プーッ!

電光表示の赤い数字が0:00を示し、気の抜けた音を出す。

「OK!2分経過。2分休みなさい」

あたしは、倒れこみ、嘔気を堪えながら激しい呼吸で胸を上下させる。

「ん〜!もう限界みたいね。まあ、大分と様にはなってきたか」

あたしは無理矢理に、身体を起こすと、ふらつきながらも、姿勢を正し、胸に掌を当て頭を下げる。

同じくナンシーも同じ体制で頭を下げた。

「あ…ありがとうございました」

「頑張ったご褒美に、演武を見せてあげるわ」

ナンシーはミットを外し、両肘を廻すように顔面の前に構えると、低く腰を落とした。

静からの…動。
一瞬の静寂を右拳が引裂き、空気が鋭い悲鳴をあげる。
マットを踏みつける鈍い音。
その刹那、力強く踏みつけられた大地から、しなやかな肉体が宙に舞う。
重力に逆らい蹴り上げた足が、より高く空を切る。

舞踏をみるような、美しい一連の動き。
白磁のような肌を伝う汗が、光を浴びて美しく弾け飛び、舞い散った。

「わあ…。ナンシーの言う通り、格闘技もダンスも似通ったところがあるのね。
NYのダンサーも、ナンシーも、所作が美しくしいもの。
兎に角、ナンシー凄くかっこいい!」

「やだあ!でしょ?でしょ?マヤは素直で可愛いわ。堅物親父には勿体無い…いえ、此方の話。
兎に角、自分の身は自分で守れるくらいじゃなきゃ、自立なんて出来ないわよ?」

「うん。だけど、日本に帰ったら、少し日舞やバレエも習ってみたいからなあ…。武術は無理かしら」

「バレエはいいわね。バレエダンサーの蹴りなんか食らったら、大の男でも吹っ飛ぶわよ?
いいこと⁉恋だって闘いよ!マヤは引っ込み思案過ぎるのよっ!相手のガードを解いたなら、後は打つべし!打つべし!」

何でも闘いに結びつけてしまうナンシーに、苦笑してしまう。

「さて、私もいいトレーニングになったわ!シャワーを浴びたら、美味しい物でも食べに行きましょう」

ご機嫌なナンシーに促され、ロッカールームへ急ぐ。
荷物の中から、タオルと着替えを取り出すと、スマートフォンに沢山の着信履歴があるのに気がついた。

「やだ!速水さんからだわ!…留守番電話が入ってるみたいだけど…」

「…さて、いよいよ、お出ましね。じゃあ、あたしもお仕事に取り掛かりますか」

意味あり気な言葉を吐くナンシーの、揶揄う様な表情を横目でみながら、録音されたメッセージに耳を傾ける。

ーー速水だ。今夜8時に君の部屋に迎えにいく。食事の予約をしておいたから、準備をして待っている様に。以上。…逃げても地の果て迄追っていくからな。

「……。え、えーーっっ!ちょっと、ナンシー!速水さん、こっちに来てるって!夜迎えに来るっていってるけど、ど、どうしよう!」

「どうもこうも、しょうがないじゃない。
さ、行き先変更よ。シャワーを浴びたら、貴女をドレスアップしてあげるわ」

さして驚いた様子も無く、サッサとシャワーを浴びだしたナンシー。

「…逃げちゃダメかなぁ」

「は?敵前逃亡する気?
というより、あの速水から逃げ切るのは難しそうねえ。
それにスウェーのしかたなら、さっき教えたでしょう?」

それでもグズグズするあたしに、ついにナンシーがきれた。

「マヤ!さっさとなさいな!時間が無いんだから!」

容赦のない力で、シャワールームに引っ張り込まれ、あたしは今晩繰り広げられられるであろう、陰湿でねちっこい御説教を想像し、身を震わせた。
これは、決してシャワーが冷たいせいではない…。


*****


「…よく似合っているじゃないか」

「ど、どうも…。これは、ナンシーが見立ててくれたんですけど…。大人っぽ過ぎません?」

ナンシーが用意してくれたのは、黒いホルターネックのタイトなドレス。
サイドに入ったスリットが恥ずかしくて落ち着かない。
急な事なので、彼女の私物を貸してくれたのかと思ったが、不思議とあたしの身体にピタリとフィットしている。

靴も幸いな事にジャストサイズだけれど、ヒールが高すぎて歩き辛い。

「何だ。マヤは大人になりたいんだろう?それ位のドレスなら、決して品を損なっていないよ。
だが、歩き辛そうだな。さあ、腕につかまりなさい。
そう、軽く俺の肘をとって…。真横を歩かない!半歩下がる!」

エスコートまで小煩い。
だが、機嫌はそう悪くなさそうで、ホッと安堵の息を吐く。

そして案内されたのは、あたしのアパートメントホテルにほど近いビルの、最上階に店を構えるシックな雰囲気のレストランだった。

「…怒ってます?」

「…別に」

レストランに着いて、黙々と食事が進められる中、初めて交わされた会話。

「さっき迄は、そんなに怖い顔して無かったじゃないですか。急にムスッと黙り込まれても、あたし困っちゃいますよ。
説教したいなら、サッサと初めて下さい。
無言の方が怖いわ…」

「…少し緊張しているんだよ。
まあ、ご期待に応えて、御説教でウォーミングアップをしておくか」

速水さんは、グラスに残ったワインを飲み干した。

「君もまた随分と派手に反旗を翻してくれたな。
この一週間、君は何をしていたのかな?
俺は散々な一週間だったよ」

「勝手をしたのは悪かったと思ってますけど、日本で過ごす筈のオフを海外で過ごしたってだけで、咎められるような事はしてませんよ」

ジロリ…。久しぶりに見る陰険な眼差し。

「…君は、あれからも里美と会ったのか?」

「あ〜…、昨日、ナンシーと3人で食事をしましたね。…別にそれだけですから」

言い訳なんかする必要ないのに、つい言い訳をしてしまう。

「ふ…ん。律儀に約束を守ってくれた里美に感謝だな」

「約束って、何約束したんですか?」

速水さんが、新たに注がれたワインに口をつけた。
つられる様に、あたしもワイングラスを手に取る。
先程から、お互いに競う様にワインを飲んでいる。

「俺がこっちに来るまでは、マヤの処女膜を破ってくれるなよと約束させた」

あたしは、口に含んだワインを速水さんの顔に吹きかけてしまった。

「ぶ…ゲ、ゲホッ!ゲホッ!速水さん!こんな所で何を言うんですかっ!」

「全く…顔にワインを吹きかける女と食事をしたのは初めてだ」

速水さんはナプキンで顔を拭うが、その姿も至って優雅なのが癪に触る。

「…よく見なさい。客は俺達二人だけだ。
今日は、貸し切りにしたからな。
大体、一生バージンで過ごさせる気かと脅して来たのは君だろうが。
よくもまあ、里美やナンシーのいる前で、うら若き乙女が、あんな台詞を大声で叫べるものだな」

「それは…!あの、アルコールも手伝って…もう!恥ずかしいから止めて下さい!反省してますから!」

「反省ねえ…。まあ、俺も少しは反省しているよ。この二年間、君を雁字搦めにした自覚があるからな。
なに。その埋め合わせなら、今日するさ」

速水さんが、左腕に嵌めた、ブレゲの腕時計に目をやった。

「そろそろだな…」

速水さんがそっと席を立ち上がり、ゆっくりと此方に向かって歩いて来る。
何故か背後に立った彼は、あたしの両頬を大きな手で挟みこみ、窓側を向かせた。

正面に見える1番高さのあるビルディングから、フッと蝋燭を消す様に、全ての灯りが消えた。

その黒い背景に、再び転々と窓に灯りがともったかと思うと、それはアルファベットを形を作り出した。
そして、下から上へと流れて行くかの様に、文字の羅列がセンテンスとなって行く。

そっとあたしの肩に、速水さんの顎が乗せられた。
彼の思いもしない行動と、静かな息遣いに、蓄積されたアルコールが、一気に血流となって全身を駆け巡った。
接近し過ぎた速水さんの体温、ガッシリとした首元から漂うフレグランスと、それに紛れる様な煙草とワインの芳香。
あたしはクラクラとしてしまい、全く文章を追うことが出来ない。

ーーUsually and forever I love you……。
Can you marry me?

あたしの両腕を掴む速水さんの手に力が篭る。

「…マヤ?返事は?」

「へ?」

低い声で耳元で囁かれ、腰が砕けてしまって、間抜けな返事しか出来ない。
速水さんは、呆然としているあたしの身体を正面に向かせ、手を取り、そして足元に跪いた。

「マヤ、返事を…。出来れば良い返事が欲しい」

「…なんの?」

眼下にある速水さんの端正な顔が、徐々に邪悪なものになっていく。

「……なんの…だと?
おい、まさかと思って聞くぞ。君は…あの文章を読み取れていないのか」

「だって!速水さん、近すぎるから…。緊張して、目が滑っちゃって…」

かくして、目の前の紳士然としたいい男は、両手両膝を地につけ、ガックリとこうべを垂れてしまった。

「語学留学とは…語学留学とは何だったんだ…。
三ヶ月ヤキモキした結果がこれなのか…」

「やだ!落ち込まないで下さいよ!速水さんがあんなにベッタリくっつかなかったら、文字を追えたかも…。
恥ずかしいじゃないですか!あんなに接近してきたら!
…で、何をお返事したらいいの?
日本語でどうぞ」

「なんで、俺があんなサプライズをしてまで小っ恥ずかしい通訳をしなきゃならん!
…はあ…。いいか!耳をかっぽじってよく聞けよ!
コホン…。いつも…何時までも君を愛してる…。結婚してくれないか…。
どうだ。訳してやったぞ。
やれやれ…。俺がとんだサプライズだ…」

「………」

速水さんは、何を言っているんだろうか。

愛してる…?結婚…⁉

全身から血の気が引いていく。

…もしかして、これが、速水さんを怒らせた罰?
洒落にならないジョーク!

「…速水さん。揶揄うのもいい加減にして下さい。確かにあたしも速水さんに失礼な事をしたと思っています。
だけど…こんな揶揄い方は酷いわ!
こんな冗談、紫織さんだって…奥様だって怒るわよ⁉」

速水さんが、ハッとしたかの様に顔を上げ、口元に手を当てた。
流石に冗談が過ぎたと思っているのだろうか。

「違う!何をやっているんだ、俺は…。
その…少々緊張して、大事な事をまだ伝えていなかったな…。
聞いてくれ。俺は先月離婚しているんだ。れっきとした独身だ!」

「え…やだ。そんなの知りませんでしたし…。
っていうより、嘘!何で⁉」

速水さんは、自分の席に戻ると、深い溜息を吐いた。

「結婚せざるを得ない状況に追い込まれての結婚だったからさ…。愛してもいない女性と婚約した罰だな。
彼女の、紫織さんの同意だけでは収まら無かったんだ。
鷹通との業務上の折り合いもつけなければならない。そう簡単にはいかないんだ。
二年だ…。二年もかかってしまったよ。
入籍した当初から、俺と紫織さんは、形だけの夫婦だったんだ。
既に彼女も、思う人がいるらしいしね」

真剣に語る彼の瞳からは、誠実さしか読み取る事が出来ない。
嘘は言っていないと、そう信じる事が出来た。

「じゃあ…さっきのは…本気で?
本気であたしの事を愛してるって言うんですか?」

これは夢かもしれない。

もしかしたら、目の前にいるこの人は、会いたいあまり、自分自身が都合よく見せた速水さんの幻?

本当の速水さんは、今頃日本で、あたしとは関わりない日常を、穏やかに送っているのかもしれない。

「貴方は誰ですか…?」

これが現実なら、こんな可笑しな質問は無いと思う。

だけど、囁きの様に漏れてしまったあたしの言葉を、速水さんは聞き逃す事なく応えてくれた。

「俺は…速水真澄だ。
10年余りも、君に恋い焦がれてきた、哀れで不器用な男だよ。」

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