everlasting

□everlasting 13
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「素晴らしき恩寵…」

ぽつりと零された一言を、速水さんは聞き逃さなかった。

「amazing grace…か」

「アメイジンググレイス?ドラマのエンディングで聞いた事があるわ」

涼ちゃんが微笑む。

「いや、いよいよ結婚式だと思ってね」

「別にね…お式には拘らなかったんだけど、速水さんがどうしてもって言うから…」

あたしが安定期に入るのを待って、来週には、教会で行うこじんまりとした結婚式を控えている。

つい、照れ隠しをしたくて、水城さんの淹れてくれたハーブティーに口をつける。
鼻腔を、カモミールの良い香りが柔らかく擽った。

「やはり、けじめだからな。親しい者しか来ないささやかな結婚式だよ」

「それでも、準備などでお忙しいでしょう?すいません。オレの為に貴重な時間を割いてもらって」

「いや…構わないさ。それより、マヤと俺に話とは何だ?わざわざ事務所を指定して来たのは、仕事に関係する話だという事かな?」

話があると連絡を受けたのは昨日の事だ。
それも、あたしだけではなく、速水さんへも連絡がいったらしい。
今日社長室へ入って来た時、既に涼ちゃんは応接セットに腰をかけて、あたしの到着を待っていた。

『やあ』

何時もの調子で、軽く手を上げて挨拶をする彼に、あたしは少し戸惑ってしまう。

普段から男性であるにも関わらず、美しいという形容詞がピタリと当て嵌まる彼ではあるが、今日の彼は、何かを削ぎ落としたかの様に、透き通るような清らかさを醸し出している。

もとより、男性とも女性ともつかない容姿と、欲深い愛憎を持たない生き様に、天使を思わせる様な、少し浮世離れした雰囲気を持つ人だったが…。

ーーamazing grace…。

あの静謐なメロディが頭の中で静かに流れだす。

「結婚式が終わったら…俺は、アメリカに帰ろうと思ってます」

静かな口調で涼ちゃんが言った。

どうして?折角、お芝居という生き甲斐を見つけることが出来たのに⁉

「涼ちゃん、なぜなの?あたしと一緒にお芝居をしたくないの⁉」

疑問をぶつけたあたしに対し、速水さんの反応は冷静だった。

「そうか…。多分、そんな話だろうと思ったよ」

そんな速水さんの言葉に、彼は深く頭を下げた。

「すいません…。大都との契約もまだ残っているのに」

「待って?あたしには分からないわ?なぜ今アメリカに帰らないと行けないの?
役者としてこれからって時じゃない!」

「マヤ、椎名君は、本気で役者を目指したくなったんだよ」

あたしはどういう事かわからずに、速水さんと涼ちゃんの顔を交互に見渡した。

「日本にいると、一見してハーフと分かる椎名君は、役柄がどうしても限られてしまう。人種の坩堝である向こうの方が、多少は制約が減るさ。そうだろう?」

「その通りです。時間が…勿体無いんです。オレ、役者としてのスタートラインが人より遅い分、少しでも早くアメリカで役者の勉強を始めたいんです」

「契約は気にしなくていい。マヤとの結婚が決まって以来、君がスケジュールを積極的に入れなくなったと聞いて、何となくだが予想はしていたよ。だが、こんな急だとは思わなかったな」

「そんな…」

急な申し出に、あたしは少し混乱してしまった。
言っている事は理解出来るが、あたしの出産が終わったら、また彼と共演出来ると、そう楽しみにしていたのに…。

そんな表情が顔に出てしまったのか、涼ちゃんはあたしに向き合うと、静かにこう言った。

「オレも自分と向き合ってみる事にしたんだ。向こうでまたカウンセリングを受けてみようと思う。」

それは、あたしも願い望んでいたこと。

「…本当に?」

今まで、カウンセリングを拒み続けた彼に、どんな心境の変化があったのだろう。

「赦しが欲しくなったんだ。オレも」

「赦し…?涼ちゃんにどんな罪があるというのよ」

彼は、一体何に赦しを乞うと言うのだろう。

「赦す事の出来なかった自分を、赦して欲しいんだ」

速水さんが薄く微笑み、涼ちゃんが少し照れた様に俯いた。

「いや、失礼。君を笑った訳じゃないよ?身に覚えがあり過ぎてね」

「全然分からないわ…」

涼ちゃんが、正解を教えてくれる前に、速水さんが語り始めた。

「…余りに痛い傷を負ってしまうとね。人は逃げてしまうんだよ。もう、傷つかないように、自分を堅い殻で覆ってしまうんだ。
君は気付いてないのかも知れないが、そんな俺の殻を、君が破ってしまったんだよ?
初めは怖かった。感情とは厄介なものだからね。
愛さなければ、愛されない苦しみなどない。
傷つかなければ、傷つける痛みもない。
赦さなければ…赦される必要なんか無いんだ」

「あたしが苦しめた…速水さんを…」

「そうだね。折角、愛なんか要らないって思ってたのに、欲を持ってしまった。
どうやって愛したらいいのか分からない。どうやったら愛されるのか分からない。
結果、君を傷つけて、そして、自分自身が傷ついた。
おい。なんて顔をしているんだ。
責めているんじゃないよ。分かるだろう?
君だけじゃないか。俺を傷つける事が出来るのは。そして俺が赦しを乞うのも。
そう、マヤだけなんだ。俺を赦し、癒してくれるのは」

受けた傷でさえ、愛おしむ記し。いつか、涼ちゃんはそう言っていた。

ーー愛なんて要らないんだ…!

あたしの目の前で、小さな速水さんが泣いている。
そんな、切なくて悲しい幻影がふっと現れ、抱きしめようとした途端、ふっと消えた。

あたしはハッとして涼ちゃんを見た。
涼ちゃんも本当は、堅い殻の中で一人で泣いていたのかも知れない。

速水さんの言葉を引き継ぐ様に、彼は言った。

「何も受け付けない。何も与えない。そのままでいいと思ってた。
だけど、唯一心を許した幼馴染が、目の前で見せてくれたんだ。唯一無二の絆を結ぶ姿をね」

蠱惑的と言われる彼の笑顔とは違う、静かで透明な微笑み。彼の本質を知っていた様で、実は見逃していたのかも知れない。

「実はさ、最初はマヤに会う事も怖かったんだ。
純粋で穢れのない少女だって、いつ迄もそのままでいてくれるとは限らないだろう?
それなら…そっと思い出だけを持って帰ろうと思ってたんだけどさ…。
ありがとう、マヤ。変わらずにいてくれて。そして、背中を押してくれて。
君と出会えて…もう一度、同じ時を過ごせて良かった」

そうじゃない。背中を押して貰ったのはあたしの方だ。

「あたしも…ありがとう」

寂しくはあるけれど、前を向いて進もうとする彼を引き止める事は、もう出来ない。

「伯父さんにね。会おうと思ってる。
憎しみに支配されそうになるかも知れない。だけど、そんな醜い自分にも向きあってみるよ。
役者として生きていくなら、きっと避けて通れないんだ。マヤにはわかるだろう?
それに…もしかして、彼だって赦される事を願っているかも知れない」

速水さんは、自分の名刺を取り出し、何かを書き込み始めた。

「向こうについたら、連絡をくれたまえ。
良い精神科医にかかれる様に手配をしよう。エージェントにも心当たりがあるから、連絡をつけておく。
それと、これを持って行くといい。俺の名刺に裏書きをしておいた。
向こうは実力社会だ。日本の様にコネは通じんが、門前払いを食らうことは無くなるだろう」

「其処までしてもらうわけには…」

「なに、先行投資だ。向こうでも活躍できる俳優になったあかつきには、大都の速水に受けた恩を倍にして返してもらおうか」

抜け目ないセリフを吐いて、速水さんは笑った。

「なら、早速恩返しの一つとして、来週の結婚式に、俺からプレゼントを贈りますよ」

「え!何かしら」

「期待に添えなくて悪いけど、食べ物じゃないからな?
オレ、熱心なクリスチャンって訳じゃなかったけど、昔お世話になった施設で聖歌隊に入ってたんだ。
神様なんか、糞食らえって思ってた事もある。
だけど今なら、敬虔な気持ちで歌う事ができそうなんだ」


*****


白い扉が開かれると、教会のステンドグラスから差し込む光が、あたしの進むべき道を指し示す。

光の中に佇むあの人は、柔らかなスポットライトの中で、ゆっくりとこちらへ笑顔を見せた。

パイプオルガンの、幾重にも折重なる荘厳な調べは、教会の白い壁を天使達が跳ね回るように反響しあいながら、ここに集う人々の心に清麗さを齎す。

あたしは、緊張した面持ちの黒沼先生の腕を取り、バージンロードに足を踏み出す。
愛する人へと続く、赤く短かな道程を、沢山の大事な人達が優しい微笑みを讃え、見守ろうとしている。

大切な幼馴染が、一つ息を吐き、跳ね回る天使達に歌声をのせた。
それは祈りにも似た清冽なテノール。

彼の歌声が優しく響き渡ると、何処からか溜息が漏れた。


Amazing grace…!how sweet the sound…


ふいに、あたしの心に呼び掛ける速水さんの声が聞こえた。

That saved a wretch like me
I once was lost but now I am found
Was blind, but now I see…

マヤ、神がいるというのなら、やっと君の手をとる事が出来た今日を、俺は感謝せずにはいられない。暗闇の中でやっと見つけた光を恵みと言わずに何と言おうか…。

Twas grace that taught my heart to fear.
And grace my fears relieved
How precious did that grace appear,
The hour I first believed…

速水さんとの出会いが、あたしに孤独の何たるかを教え、速水さんの愛があたしを孤独から解放してくれたの。
初めてあった時から気付いていたのかも知れない…貴方と結ばれることを…。

Through many dangers, toils and snares.
I have already come
Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home…

多くの困難を乗り越え、やっと辿り着いた。君に導かれて。
これからはずっと一緒だ。

When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we've first begun…

ずっと一緒ね。
神様がいるというのなら、貴方と出逢えたこと、あたしも神様に感謝せずにはいられない…。


あたしの声も貴方に届いたかしら?

「聞こえたよ」

少し照れた様な笑顔で差し出された手に、そっとあたしは自分の手を重ねた。



大きな暖かい手。あたしはこれから先、この温もりを離すことはないだろう…。

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