Season3 【完結】

□冬の章一 水初涸(みはじめてかる)
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夕刻過ぎの車内は、いつもより混んでいた。
本来なら、学生と社会人は時間差で乗り込むため、朝のラッシュのような混雑はない時間帯なのだが、この日は電気系統の不具合で運行が大幅に遅れ、各駅に待たされた客が、運転を再開した列車に一斉に乗り込んできた。
璃青と薔乃も乗り込んだが、既に目一杯の車内は、奥に進むことも出来ず、それでも乗車しようとする人々に押され、身動きが取れなくなったいた。
璃青と薔乃は向かい合い、胸の前で持っていたカバンが、手を離しても落ちないほど密着していた。

「もう一本送らせば良かったね」

薔乃が、息のかかる距離で話しかけた。

「だね。次で降りて待つ?」
「うん」

車輌はいつもより速度を落として走っているが、身体を支える吊革もなく、安定しない体勢でいる璃青と薔乃の身体は、容赦なく前後左右に揺さぶられた。
その度に、他人の肘やカバンが身体に食い込む。
不快に思っても、それを取り除く術はなく、身動き一つできないこの場ではひたすら我慢するしかなかった。

「…り、璃青…」
「ん?」

薔乃が震える声で、璃青を呼んだ。

「…痴漢…誰か触ってる…」
「手が当たってるだけじゃないの?」
「…で…でも、スカートの中に…」

璃青は深く溜め息つき、またか…という顔した。
薔乃が痴漢に遭うのは、一度や二度のことにではなかった。
庇護欲より嗜虐心の方がそそられるのか、そもそも痴漢の生態として嗜虐的なのか、璃青には理解し難かったが、とにかく薔乃はよく狙われていた。
長い黒髪に、女性らしいふっくらした唇。
中学生に見えない大人びた雰囲気も、狙われやすい一因かもしれない。
比較対照として、璃青が隣にいると尚更だった。
璃青はどちらかというと、精悍なタイプで、怖い印象を与えていた。

「…紛れもなく痴漢だね。ちょっと頭下げて」

170センチ以上ある璃青に対して、薔乃の身長は平均的な157センチ。薔乃が璃青の肩に頭を乗せると、遮られていた視界がほんの少しだけ拡がった。
璃青は肩越しに現場を覗き込んだが、カバンや服に隠れて、証拠を掴むことはできなかった。

「……っ…!」

璃青の肩に伏せていた薔乃の頭がビクッと跳ね、顔がみるみる赤くなっていく。
璃青は体勢を変えようと、後ろに身を引こうとしたが、一歩も動くことはできなかった。
声に出して訴えても、好奇の目が薔乃に向かってしまっては、更なる屈辱を与えることになるだろうし、何より卑劣な輩を捕らえることができない。
スカートの中で、何が行われているのか?
考えただけで気色が悪い。
どこかでこの反応を見て、悦びに浸っている奴がいるのかと思うと、璃青は腸が煮えくり返る思いだった。
何もできないまま、車輌の速度が落ちていくのを待った。
次の駅に停まり、ドアが開くと、わずかばかりの乗客が降りていく。

「まだ触ってる?」

薔乃は泣きそうな顔で、小さく頷いた。

とにかく、この場から早く逃げたい―。

薔乃の必死の願いを、璃青は敢えて押し止めた。

「そのまま動かないで。カバン持ってて」

璃青は乗客の動きを目で追い、薔乃の背後にスペースがあるのを確認すると、間合いを計り、彼女を力任せに移動させた。
薔乃の身体がよろめき、翻ったスカートの裾から引き抜かれた手を、璃青は見逃さなかった。
一瞬で袖を掴み取ると、もう一方の手で腕を鷲掴みにし、輩の本体を引きずり出した。
体勢を崩して、人の輪から出てきたのは、四十代前後のサラリーマン風の男だった。
突然の出来事に、歯が合わないのか口をパクパクさせ、驚愕した顔が、みるみる蒼白になっていった。
璃青は男に隙を与えず、ネクタイを掴むと、引っ張って車輌の外に出た。

「は…離せ! 俺が何したって言うんだ!? あぁ?」

男はそこで我に返ったのか、漸く言葉を発した。

「女の子の身体、触ってましたよね?」
「さ…触ってない! いいから、離せ!」

やっていないと騒ぎ立てる男を無視し、璃青は馬を引くようにホームを歩いた。その後を、不安そうな顔で薔乃が追った。
周りの客はジロジロと横目に通り過ぎていくか、遠巻きに見ているだけで、誰も手を貸そうとはしなっかったし、璃青も騒ぎ立てて、周りを巻き込むようなことはしなかった。
にわかに、騒がしくなったホームの一画に気づいた駅員が、走り寄って来ると、男の抗う力が弱まった。

「どうかしましたか?」
「駅員さん、こいつらがいきなり……」

先に口を開いたのは、男の方だった。

「ネクタイ引っ張って、人を痴漢扱いしやがって! いったい親はどういう躾してんだよっ!? 冤罪だぞ、冤罪!」

―冤罪。

薔乃の胸が鳴った。不安を指摘され、脚がすくむ。
痴漢行為を自らの目で確かめたわけでなく、証明する術もなかった。
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