Season3 【完結】
□冬の章一 水初涸(みはじめてかる)
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駅員は捲し立てる男を、柔らかく制止し、状況を把握しようと、璃青と男の間に入った。
「と…取りあえず、ネクタイから手を離そうか?」
「この人、痴漢です。逃がすわけにはいかないので」
「俺がやったっていう証拠でもあるのか!? あるなら出してみろよ! 無かったら、すみませんじゃ済まないからな!? 恥かかせやがって!」
男は口端に泡を溜め、捲し立てた。それでも璃青はネクタイを持つ手を緩めなかった。
「確認だけど、触ってるところ見たんだよね?」
駅員が、訊いた。
「み…見てませ…」
「見ましたよ」
薔乃が言葉を詰まらせると、璃青が食い気味に訴えた。
「スカートの中から、手が引き抜かれるところを見ました。左手の親指に
にささくれ。血が滲んで、こびりついています。手首の内側に二つの黒子。カッターの袖に、茶色の染みがありました。調べてみて下さい」
「本当に?」
璃青が無言でコクコクと頷くと、駅員が男に詰め寄った。
「すみませんが、左手を見せていただけませんか?」
「はぁ!? 何でだよ? 俺は被害者だぞ」
男は声を荒げながら、密かに左手をズボンのポケットに隠した。
「ですから、疑いを晴らすためにも…」
「断る」
「では、乗務員室で少しお話を、聴かせて下さい」
「話すことなんて何にもない! いい加減に、ネクタイを離さないかっ…!」
男が力任せにネクタイを引っ張ると、その動きに合わせて、璃青がネクタイを離した。
男はあっと目を開き、後方へとよろめいていく。
璃青には予想通りの動きで、体勢を崩して宙をもがく男の腕を、難なく捕まえ、捩り上げた。
「…痛ってぇ! 何すんだ…」
「これ」
璃青は捩り上げた男の腕を、駅員の前に突き出した。
「な…何だったっけ?」
「親指にささくれ、こびりついた血。手首に二つの黒子。袖にシミ」
「失礼します」
男は腕を捩られても尚、駅員に見られないようジタバタと抗った。漸くで、男の腕を見た駅員は、目の色を変えた。
突きつけられた証拠に、男の犯行は決定的だった。
「彼女達の言ってることが、正しいんじゃないですか?」
男は観念したのか、腕は力なく落ち、駅員は逃げられないように、項垂れた男の両腕を、後ろから羽交い締めにした。
「一緒に乗務員室まで、お願いできますか?」
「あ、被害者はこっち。私は捕まえただけ」
「あ…あの、被害届とかいいです。私達、受験生で面倒な事は避けたいし…」
璃青の横で、小さくなっていた薔乃が、おずおずと言葉を発した。
「しかし…」
「いいって言ってんだから離せよ!」
男は往生際悪く、かぶりを振って、この場から逃げようとしたが、駅員と璃青はそれを許さなかった。
男のスーツははだけ、皴が寄り、みすぼらしく見えた。
「…被害届って、どんな被害に遭ったか、訊かれるんですよね?」
「それは…」
駅員は口ごもった。
職業柄、この手の被害には心を痛めていた。
加害者と同性の職員に、被害の詳細を話すことは、受けた傷を自ら押し広げ、晒すことになる。
中には、それでも訴えたいという強気な女性もいるが、事の重大さを理解していない職員になると、その強気さを逆手に取って、そういう態度が痴漢を増長させたんじゃないのか、などと言い出す始末なのだ。
「女性職員もいますから」
薔乃は唇を噛み締めた。
見ず知らずの男に身体を触られ、耐えていた屈辱の時間を、敢えて口にしなくてはならない。
同性が聴き手でも、この怒りと悔しさ、何より総毛立つほどの気持ち悪さを伝えるのは辛かった。身体に残る感触は、どんなに伝えても拭えないのだ。
「あの…」
見かねた璃青が、横から口を出した。
「擁護する訳じゃないけど、この人常習じゃないと思います。普通、人が動く時って一旦身を引くと思うんですけど、この人駅に停まっても触ってたし、連れがいるのに行為に及ぶなんて、素人じゃないかと」
「ほんの出来心ってこと?」
「……」
駅員の言葉に、男は同調するような目で見た。
―だから、見逃してくれ、と。
「…か…かわいかったし、大人しい感じだったから…、男としては、つい触りたく…」
「何か、触られたことを喜べって、言ってるみたい。つい、触りたくなるぐらい、可愛いって誉めてんだから、喜べよって」
「……いや、そんな…」
「どこまでも自分本意だね。だから、あんなに大胆なこともできたんだ?」
璃青は釘を刺すのも、忘れなかった。
「それでも痴漢は痴漢だから」
「ですよねー」
追い討ちをかけた駅員に、璃青は同調した。
「み…認めて下さい。そしたら…」
薔乃が怒りに震えた声で、言い放った。
「あ、ちょっと待って」
璃青がよれた男の上着の襟を引っ張り、内側のポケットに手を忍ばせた。
「あっ…!」
「はい、薔乃の分」