ダー芸ワンライ5

□3.渇望
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『それじゃあ行ってくる』

少しだけ心配そうな顔で
春は仕事に行った。

これから数日、
春はこの部屋に戻ってこない。
新曲のMV撮影のために
東京を離れてしまう。

(順調に進めば早めに帰れるって
春は言っていたけれど……)

それでも予定は1週間だ。
機材トラブルや天候によっては
どうなるかも分からない。

そもそも私は
芸能人の仕事について
何も詳しくはないのだ。

春の側にいて
作品を生み出す苦労は
少しは見てきたけれど。



ベットのシーツを取り替える時
ふと気がついた。

このベットって、
こんなに大きかったっけ?
今までそんなの
気にしたこともなかったのに。

部屋の掃除をしていてもそうだ。
なんだかやけに、広く感じる。
何も変わらない、いつもの空間なのに。





『たかが1週間でしょう?
遠距離恋愛じゃあるまいし』

編集部の一角にある
打ち合わせ室で
楠にそう一蹴された。

『先生って、そんなに恋愛に
左右される人だったんですね』

そんな嫌味混じりな言葉も投げられた。

そうなのだ。
たかだか1週間。
来週には帰ってくるのだ。


『……少し、気分転換しませんか?』

そう言って連れ出された場所は
名も知らない、画家の展覧会。

一枚だけ、足を止めて
見入ってしまった作品があった。

一人の女の肖像画。

美しく光る装飾品。
力強い眼差し。
少し開いた唇から
今にも何か言葉を発しそうな。

彼女の眼差しの先には
何が写っていたのだろう。

彼女はなにを
私たちに伝えたいのだろう。

彼女の視線に
足が床に縫い止められた気がした。


絵を通して
これを書いた作家の情熱が
伝わってくるようだった。


春の歌もそうだ。
彼らが作り出す音楽は
聞く人を虜にさせる。
伝えようとしていることが
歌詞からも、音からも溢れている。

この、名も知らぬ画家も、JADEも
表現のプロだ、と思った。

では、私は──?


たかだか数日、恋人が不在になるだけで
仕事も手につかないなど
アマチュアもいいところだ。
これではダメなのだ、と
楠に言われているようだった。

こちらを向いている女の肖像画。
その視線から
思わず目を逸らしてしまった。



家に帰ると
相変わらず春の不在を全身で感じる。

いないからこそ、
今までいた存在を
強く感じる。

いないのに感じるとか
表現としておかしいけれど。

無機質な鉄の塊が
21時を表示したとき、
愛しい春から着信があった。

『もしもし』

聞きたかった声。
でも違う。
こんな、フィルターを通した声ではなくて
いつも私の耳に
直接注がれる、
甘やかな声が欲しい。

『今日は、なにして過ごしていた?』
『今日は……
楠が展覧会に連れて行ってくれて……』

テーブルの上に置いていた雑誌。
表紙のJADEを見つめる。

こんな、カメラに向けられた目線ではなくて
私を見つめる、
熱いまなざしが欲しい。


『そこですごい素敵な絵があって……』


悔しい。
私にそんな力はなかった。
人を惹きつけてやまない作品を
生み出す力など──


電話の途中だというのに
涙がこみ上げてきて
言葉に詰まった。

『春、わたし、春がいない間
仕事頑張るね。
だから、帰ってきたら
一番に読んで欲しい。
楠よりも先に』
『それは構わないが……
俺が読んでもいいのか?』

読んで欲しい。
春を惹きつけてしまうような
そんな世界を綴りたい。

春が、そして作品に触れた読者が、
もっと私の世界に
ずぶずぶに溺れたいと渇望するような
そんな作品を──


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