小説

□幸せになるために
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 ものすごく近くで優しい匂いがしたので目が覚めた。

「…おはよ」

 目の前の夜トの頬に軽く平手打ち。ぺち、という気の抜けるような音に続いて「いて、」と声が降ってきた。

「なんで起きちゃうかな…」

 鼻がぶつかる距離で夜トが心底残念そうにぼやく。吐息がかかるが不快感はない。それが夜トが放っている良い香りのせいだとは、何年経っても未だに言えていなかった。
 ぼんやりと夜トの瞳を覗く。今も昔も変わらない清んだ青であった。

 午前中の往診を終えて、久々に顔を出しにきたものの、土曜の午後は店が賑わっており、小福たちは手が離せないらしかった。氷を仕入れに出掛けていった大黒の代わりに何か手伝いたかったが、雪音にエプロンを取り上げられてしまう。眩しい笑顔に白い歯を見せて「ひよりはゆっくりしてなよ」と言われてしまってはもはやする事もなく、畳の上に白い脚を放り出してはぼんやりと、伸びすぎてしまった足の爪を眺めていた。
 燦々と照りつける太陽。じめじめした空気の中、たまに流れてくる涼しい風はひよりの瞼を重くする。蝉の鳴く声がだんだんと遠ざかり、自分は知らぬ間にうたた寝をしてしまっていたらしい。少しだけ背中が痛かった。
 じんわり汗ばんだ額を押さえながら起き上がると、それに合わせて夜トも姿勢を戻す。ひとつ小さな欠伸をしてから、目を細めて夜トを睨む。

「なに寝込み襲おうとしてるんです」
「無防備なひよりが悪い」

 むくれる夜トの様子から、未遂の行為であったことが分かる。
 キスなんて、今さら。この歳になって恥ずかしがるのも可笑しい気がして、ひよりは平静を装うために髪を掻きあげた。話を逸らそうと目を伏せ口を開こうとしたが、ふと首のまわりが寂しいことに気がつく。

「…?」

 胸に手をあてて辺りを見渡す。着けていたはずのネックレスが見当たらないのだ。枕にしていた座布団を持ち上げてみる。

「ウソ、」

 手をついた畳が冷たい。立ち上がって縁側に降りるが、自分が履いてきたサンダルが並んで置いてあるだけだった。

「…どーした?」

 ひよりのただならぬ様子に夜ト青い瞳が揺れる。

「ネックレス落としちゃったかも…」
「え、」

 午前中の記憶を辿る。老人ホームの往診と、一人暮らしの高齢者の家を数件を診て廻った。

「大江さん家に行ったときにはあったと思うんですけど…」

 今日の出来事を一通り喋り終えて、ひよりは俯く。

 初めて自分のためにと思って買ったティファニーのジュエリーだった。
 周りの人間から、くどくどと結婚だなんだと囃し立てられていたひよりが、ある日突然首からダイヤを下げたという話は職場で一気に広まった。外来を歩いていても「おめでとう」などと、通院しているオバサマ方にまで声をかけられる始末。

「幾らしたの、ソレ」
「五十万…」
「うぉ」

 夜トが変な声をあげてぐるんと白目を剥く。

「ま、いいんです。」

 ショックが大きすぎたが、ひよりは取り敢えず笑ってその場をやり過ごそうとする。

「どうせ自分で買った負け犬ジュエリーだし…」

 背伸びをし過ぎだったのだろうか。結婚なんて、そんなものしなくたって、自分は十分幸せだと言い聞かせ、見栄をはったのが間違っていたのだろうか。
 無意識のうちに目元が熱くなる。
 それを気づかれたくなくて、サッと立ち上がった。「麦茶淹れてきますね」と言って台所に向かおうとした、次の瞬間。

「アホか!!」

 怒鳴られた。大きな声にびっくりして肩をすくめる。

「夜ト…?」

 振り返れば、ものすごい形相でこちらを睨む男がゆらりと立ち上がる。
 真っ白のロングスカートに隠れて、立ち止まるひよりの太股に、つつと一筋汗が流れた。それが踝まで降りてくる。夜トは何も喋らない。五メートルほどの離れた距離でひよりは立ちすくんでいた。

「…何が負け犬ジュエリーだ」

 先に沈黙を破った夜トがくるりと背を向けて歩き出した。
 どこに置いてあったのか、真夏に履くにはあまり相応しくないブーツを庭に投げる。靴紐を結ぶ姿をひよりはただ黙って見つめた。
 履き終えて、足元を踏みしめこちらをもう一度睨む。

「ひよりは自分を大事にしなさすぎだ」

 奥歯をギりと噛み締めて、どこか哀しげな瞳がひよりを射ぬく。

「腹立つ…!」

 夜トはその場から離れていった。思わず駆けよってみるが、もう姿は見えない。向こうの空に、大きな入道雲がそびえ立っていた。

***

 雨が物凄い勢いで屋根を打つ。昼間まで燦々としていた太陽はどこへ行ったのだろう。ドダダダという音が鳴り止むことはなく、屋根に穴が開くんじゃないだろうかと思うほどだ。
 外の様子とは対照的に家の中はしんと鎮まりかえっており、いつも騒がしいはずの小福邸に似つかわしい雰囲気が漂う。

「…夜トは帰ってきたか」

 風呂上がりの大黒に声をかけられる。首を横に降って答えれば、苦笑してテーブルに手をついて腰を下ろした。
 ひよりは新しいグラスに氷を容れて、梅酒を注いで大黒の前に置く。カランと音を立てて「ありがとう」と笑う大黒の顔も、当然ながら昔と何も変わらない。

 ここで晩酌を楽しむようになってからは、こうして小福邸に泊まることも度々あったため、幾らか着替えを置かせてもらうようにしている。一人暮らしをするようになって、こういうことでいちいち両親に連絡を入れる必要もない。

 高校時代に一度だけ、お泊まり会と称してここに泊まったことを思い出した。
 夕飯の支度を手伝って、魚の焼き方を教えてもらったこと。お酒を舐めて、真っ赤になってしまったこと。夜トと雪音の間に布団を敷いて、夜遅くまで騒いで大黒に怒られたこと。

「そんなこともあったなあ」

 懐かしそうに目を細める大黒を見て、ひよりも微笑む。
 自分が飲んでいたグラスを、明かりのしたに持ち上げる。氷が動いて、目のなかに入ってくる光が形を変えた。

「私も、もう三十二ですからね…」

 大黒の手製の梅酒が喉を潤す。そんなに強くないつもりだったのに、いつの間にか人並みに飲めるようになっていたらしい。

 三十二年。夜トたちと出会ってから半分。
 小さい頃からの夢を叶えた。この仕事は自分に向いていると思うし、父の仕事を手伝うことに遣り甲斐を感じている。

『そろそろ自分の幸せ考えなよ』

 浮かんだのはいつだったか同僚に言われた台詞だった。

 ひよりはテーブルの上に頭をのせて目を瞑った。グラスをおいて掌を握りしめる。

「周りが結婚結婚てうるさい…。」

 身体中の血液が心地好いリズムで流れていくのを感じながら、ひよりは薄目を開けて大黒を見る。

「そりゃ私だって、結婚して家庭を持つことが夢ですよ」

 普段は愚痴をこぼすようなことはしない。でも今だけは、この美味しい梅酒のせいにして全て吐き出したかった。

「親に言われてお見合いだってしたし、何人かの男性ともお付き合いしました」

 夜トには黙ってたけど…、と付け足してまた目を伏せる。

「でも、全然ダメ…」

 雨の勢いが激しくなる。打ちつける雨の音に、ひよりの心は不思議と落ち着いていった。

『ひよりは自分を大事にしなさすぎだ』

 まるで自分のことみたいに怒っていた。昼間、夜トに言われたことを思い出す。

「わたし、幸せってなんだかわかんない…」

 テーブルに突っ伏して、小さくため息をついた。
 なに言ってんだろ…と独りごちて、少し角度を変えて大黒を見上げる。

 大黒はそんなひよりの話を黙って聞いていた。残りの梅酒を飲みほして、ふっと微笑む。大きな手でぽんぽんとひよりの頭を撫でて何も言わずに立ち上がり、自分のグラスを持って台所に向かって歩き出す。
 その背中に、生きていた頃の彼が追い求めた夢だとか、育んできた幸せだとかが浮かび上がってくるような気がして、ひよりは思わず顔をあげた。

「夜トなら大丈夫だ。きっとすぐ帰ってくる」

 大黒が振り向いてひよりに声をかけた。「ひよりちゃんも早く休みな」と優しく笑って、「おやすみ」を言い居間から姿を消した。

 再び静寂が訪れる。窓の外に視線を移して、さらに激しさを増す雨の音に耳をすませた。

***

 降りつづける雨にはまるで法則性がなかった。あらゆる方向に流れて、拡散し、たまに停止し、きまぐれに落ちていく。
 ひよりはそれを黙って眺めた。部屋中にこもった湿度の高い空気。時計の針はもうすぐ夜中の一時を指す。起きているのはひよりだけだった。

 台所の方から雨漏りの音がした。
 水浸しになっている床を見つけて、取り敢えず流しに掛けてあった雑巾で拭く。玄関にバケツがあったような気がして、ひよりはそちらに向かって歩き出した。

 玄関の戸が強風に当てられてガタガタと軋んだ。鍵はいつもかかっていない。
 バケツが収納してある扉を開けた。マメに掃除をする大黒のお蔭でそこは綺麗に整っている。
 中に入ってある物を丁寧に取り出した。バケツは二つ重ねられたうちの一つを持ち上げて、元に戻して扉をしめる。

 その場を離れようとしたとき、突然玄関の戸が開いて風が勢いよく入ってきた。
 汗だか雨だか分からない、全身濡れ鼠になった夜トが佇んでいる。

 お互い見つめあってしばらく黙って立っていたが、夜トが戸を閉め靴の中で水音をたてながら入ってきた。どっかりと玄関に腰かける。髪から滴が落ちて夜トが視線を落とした。

「おかえりぐらい言ったらどうなの…」

 さっきから言葉が胸の中に沈殿したきりで、なんとか口をついてでたものは結局、ありきたりな形をしていた。

「…どこ行ってたんですか」

 ひよりはゆっくりと近づいた。夜トは何も言わずに壁に寄りかかって座り込んでおり、靴を脱いで乱雑に床に投げた。靴下まで水浸しだった。

 疲れた、と小さく呟いてこちらを見てくる。そこで初めて視線がぶつかった。ひよりはその透き通るような瞳に吸い込まれそうになって身動ぎをする。
 ややあって夜トが両腕を伸ばして言った。

「脱がして…」

 その空ろな目に思わず赤面する。一瞬躊躇ったが「上だけですよ」と言って徐に夜トの手を取った。
 その場に屈んで、首までしっかり上げられたファスナーを下していく。乱れた呼吸のせいで白のシャツ越しに夜トの広い胸板が上下していることに気づいた。こんな雨の中、何をしていたのだろう。

 チャックを全部下ろしきって「腕、あげてください」と促せば、少しだけ前のめりになって袖から左腕を引き抜く。ひよりは襟を掴んで後ろに回して、身体中にへばりついたそれを手際よく脱がした。
 水をたっぷり含んで重たくなった黒いジャージを腕に抱え「今、タオル持ってきますね」と言い、膝を立ててその場を離れようとしたのだが、思い切り腕を引っ張られそのまま夜トの腕が背中に回る。

「っ、…!」

 逃れようとしても夜トはそれを許さない。強く抱き締められて、抵抗する度に後ろにある引き戸にぶつかって大きな音がたってしまう。

「ちょ、…やとっ」

 首筋に夜トの鼻があたり、くすぐったくて身をよじる。びちょびちょに濡れた身体に包まれて、その冷たさにひよりは震えた。
 力を込めて夜トの胸を思い切り押す。ところが同じタイミングでパッと手を離されたので、夜トは勢い余って後ろの壁に頭をぶつけてしまった。ゴツンと鈍い音がして夜トが呻く。

「夜トっ!」

 ごめんなさいと手を伸ばそうとして、ひよりはふと首もとに違和感を覚える。思わず胸に手を当ててその正体に触れた。

 無くなったはずのダイヤモンドが自分の首もとで光っている。

「どうして…」

 また滴が落ちて濡れたシャツに吸い込まれていった。壁に背中をあずけて俯いていた夜トが、かすかに視線を上げる。
 崩れた体勢を直すこともなく、後ろに寄りかかったまま真っ直ぐひよりを見つめた。


「綺麗だ」


 気がつけば雨は小降りになっている。ひよりはただ黙って夜トを見つめ返した。

 必死になってもがく三十二の自分と、あどけない笑顔を振りまいてキラキラと生きていた十六の自分が、青い瞳の中でユラユラと映ってみえた。



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