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□君と過ごした夏
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「なあ、コラさん。記憶を失う前のおれって、どんなだったんだ?」
 ローが記憶を失ってから一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎた頃。
 家事を手伝うようになったローが、食後の洗い物を済ませておれに問いかけてくる。
 ソファに座って新聞を読むおれの隣に座ったローは、腕に頭を懐かせておれの読む新聞を覗き込んできた。
「そうだな。今のお前と同じように、料理だけは何を作らせても駄目だったな」
 目玉焼きは焦げてカリカリになるし、味噌汁は噴きだすくらいに辛い。
 魚を焼かせても炭になる始末だと教えてやれば、唇を尖らせたローは拗ねた表情をする。
「じゃなくて! コラさんは、おれのどんなところが好きだったんだ?」
 新聞とおれとの間に身体を滑り込ませたローは、おれの膝を跨ぐようにして座り、真剣な表情になった。
 その目が不安げに揺れているのは、気の所為ではないだろう。
 ローはおれが見ていないと、どうにも情緒不安定になるらしい。
 それは記憶を失っているからという理由もあるだろうが、多分、本音はおれが記憶を失う前のローを求めているからだと思う。
「なあ……。おれ、頑張ってコラさんが好きなおれに近づくから」
 だから、おれを見て――
 そう言って首に腕を絡めてキスをするローに、おれはただただ罪悪感しか抱かない。
「お前はお前のままでいい」
 宥めるようなキスを交わして、癖のある髪をひと撫で。
 離れ間際に見たローの顔はやはり泣きそうで、そんな顔をさせたい訳じゃないと思わずため息を吐きだせば、ローが飛びついてきた。
「でもっ、それじゃあ……おれ、コラさんに好きになって貰えねェッ!」
「おいおい……」
 絞りだすように告げられたローの声は悲痛だ。
 微かに震える身体を抱きしめてやれば、合わさった胸からローの速い鼓動が伝わってくる。
「コラさんが好きだ……。おれ、記憶が戻ったら、今のおれが消えてしまうんじゃねェかって……そんなことばっか考えてて」
「ロー……」
「おれ、コラさんをずっと好きでいたいし、今のおれを好きになって貰いたいんだ」
 再び合わさった唇は、可哀相なくらいに震えていた。
 それから毎日、ローのスキンシップが多くなった。
 甘えているのだろうが、その甘え方がいちいち可愛らしいと思えちまうんだから、手を出さないようにするのが大変だと思う。
 抱きつく、キスをする――
 それだけじゃなく、感情をぶつけて自然体で接してくるローが堪らなく愛しい。
 でもやはり、おれの中には記憶を失う前のローも大好きで、大切にしたいという思いがある訳で。
「なあ、コラさん。何処か出かけてみたい」
 ローがそう言ったのは晩飯も食い終わったあとのことだ。
「そうだな。じゃあ、ドライブにでも行くか」
 気分転換になるだろうという思いで車を走らせる。
 夜空には星が瞬いているけれど、都会の灯りに邪魔をされて綺麗に見ることは出来ない。
 赤いテールランプを見ながらローはわくわくとした表情を見せ、時折おれを見て嬉しそうに笑う。
 そんなローを可愛らしいと思いながら、一時間ほど車を走らせたおれは、地元で一番高い山の頂上で車を停めた。
「着いたぞ」
 助手席の扉を開けてローの手を取れば、頭上の満点の星空を見たローが感嘆の声を上げる。
「綺麗だろ。夜は人も居ねェから穴場なんだ」
 展望台までローを案内してやれば、眼下に見える夜景にローが更に感嘆のため息を吐いていた。
「綺麗だな……」
 家からでは見ることのないこの景色は、おれもローもたまに来て見るお気に入りの景色だ。
「だろう? お前、ここで夜景や星を見るのが好きだって言ってたからな」
 そう言ってローの肩を抱いてやれば、一瞬身体をビクリと震わせたローが、何故か寂しそうな顔をしておれを見上げてくる。
「コラさんは……、思いだして欲しいか?」
 虫の鳴き声しか聞こえない世界に、ローの出される声が切なく響く。
 柔らかく吹く風は夏の終わりということもあって、このまま夜風にずっと当たっていれば間違いなく身体を冷やすだろう。
 いつもなら肌を触れ合わせているローの距離が遠い。
「おれが消えて、前までのおれに戻って欲しいか?」
 その言葉にどう答えていいのか解らない。
 ただローをきつく抱きしめてやれば、戸惑う手がおれの背中に回される。
「ゴメン。こんなこと言いたいんじゃない。ただのヤキモチだ。それも、自分自身に対する……」
 どちらのローも手放したくないのは、きっとおれのワガママな感情なのだろう。



 ローが記憶を失ってから半月ほどが過ぎた。
 今日は夏の締め括りとして花火大会がある日だ。
 記憶を失ったローとの生活も慣れ始めてきたけれど、おれはローのふとした仕草に懐かしさを感じたり、恋しさを感じたりしている。
 ローは変わらずに、おれに懐いたり甘えたりするスキンシップが多い。
 そのローが今日は朝から眉間に皺を寄せて難しい顔をしているし、昼食後も一人でおとなしくソファに座っているもんだから、流石におかしいと思ったおれはローの隣に座って顔を覗き込んだ。
「具合悪いのか?」
 そう問いかけてローの額に触れるが、感じ取れる体温は普段と変わりないように思える。
「少し頭痛がするだけだから大丈夫だ」
 あとで薬を飲むと言って、笑ったローがおれの腕に頭を懐かせてくる。
「今日の花火大会、止めておくか?」
 懐くローの髪を撫でてやれば、ふるふると頭を振ったローが嫌だと言った。
「大丈夫だから。それに、コラさんとの思い出が欲しい」
 キスをねだるローにおれは苦笑を浮かべ、前髪を除けて額にキスを落とす。
「今年が駄目でも、来年も――」
 来年もある、そう言いたかった言葉は、ローの唇に飲み込まれた。
「コラさん。おれは、この夏じゃなきゃ駄目なんだ」
 だって、来年も今の自分で居られる自信がない――
 そんなことを言われてしまえば、胸が締めつけられて苦しくなってしまう。
 ローの記憶が戻ることは嬉しいことだけれど、このローだってローだ。
「ロー……」
 きつく抱きしめて互いの寂しさを埋めるようにキスを交わしたおれは、次第にキスを深いものに変えていく。
 ローの腕がおれの背中に回されて引き寄せられるのを合図に、おれはローのシャツを脱がせて素肌に直接触れた。
 微かに粟立つローの肌は、撫でる度にしっとりとおれの手に馴染んできて、唇で触れると徐々に熱くなっていく。
「コラさん……。抱いてくれる気になったか?」
「――ッ……」
 熱のこもった、それでも悪戯な瞳で見つめられると、今のローに手を出してどうするという罪悪感に支配されて、おれは苦虫を噛み潰したような顔でローから離れた。
「具合悪いのに、すまねェ……」
 そう言うおれの言葉は、ただの逃げ≠セ。
 離れたおれにローは寂しそうに笑いながら、脱がされたシャツを着て鎮痛剤を飲んでいた。
「ここ、穴場なんだぜ。いい場所だろ」
 花火からは少し遠ざかってしまうけれど、人混みではなく殆ど人が居ないこの場所は、もう何年も前からローと二人で花火を見る場所だ。
 レジャーシートを敷いて小さなテーブルを置くと、その上に持ってきた弁当やビールを並べる。
「あ。だし巻き玉子」
「クスッ。好きだろ、お前」
 箸を渡してやれば、ローが一番先に食べるのは決まってだし巻き玉子からだ。
 記憶を失っても、根本的なことは何ひとつ変わらない。
「んまい」
 だし巻き玉子を食べたあとのその言葉も、もう何年も前から聞いてきた言葉だ。
 花火が徐々に上がり始め、夜空に色とりどりの華が咲く。
「頭痛。まだ治まらないか?」
 こめかみを押さえて眉間に皺を寄せるローを見る限りでは、昼間に飲んだ鎮痛剤は効いていないようだ。
「平気。なあ、コラさん。抱きしめててくれ」
 花火の光に照らされるローの横顔が、何だか泣きそうに見えるのは気の所為だと思いたい。
「甘えん坊さんだな、ローは」
 おれはローの隣に移動すると、肩を抱いて頭を胸に懐かせてやる。
 ローは安心したように深く息を吐くと、おれを見上げてキスをねだってきた。
「ん……っ……」
 触れるだけで済ませるはずだったキスは、ローがおれの頭を引き寄せたことで深いものに変わっていく。
 花火の音が鳴り響く中で、何度も飽きるまでキスを交わしたおれは、ローが涙を流していることに気づいて驚く。「ありがとう、コラさん。おれ、コラさんのことが大好きだった」
「ロー……?」
「来年も花火、一緒に見られたら嬉しい」
 そう言って目を閉じるとおれの胸に倒れ込んできたローに、おれは一気に体温が下がるのを感じた。
 嫌な汗が流れて動悸が止まらず、息苦しい。
「おい、ロー……」
 眉間に皺を寄せて目を閉じるローの頬を軽く叩けば、微かに呻いたローが目を開けて訝しそうにおれを見つめてる。
「コラさん。花火が終わっちまう」
 何事もなかったかのようにそう言って夜空を見上げるローに困惑しつつも、クライマックスに移った花火を見れば、涙を拭ったローが何かを言っていた。
「好き勝手しやがって……」
 確かにそう聞こえたおれは、もしかしてと思い口を開く。
「えっと……、ロー。お帰り?」
 顔から火が出るってのは、まさにこういうことなんだろうって思う。
「た、ただいま……」
 耳まで真っ赤に染めたローが、バツの悪そうな顔をしてただいま≠ニ言い、視線を逸らした。
 おれはローを力強く抱きしめると、ローがぐえっと呻いたことも気にせずに癖のある髪に顔を埋めた。
 そんな宥めるように背中に手を回したローが、おれの背中をポンポンと撫でるのだから、おれは思わずまじまじとローを見つめてしまう。
「なんだよ……」
「記憶、戻ったんだよな?」
 おれの思い過ごしでなければ多分――
「戻った……。世話をかけた……」
 ローは記憶を失っている間のことも覚えていると思う。
「それは構わねェんだが。ロー、記憶がねェ間のことは覚えてるのか?」
 それでも確かな答えが欲しくて問い詰めれば、一瞬だけ目を泳がせたローが小さく呟いた。
「恥ずかしいから、なかったことにしてェ……」
 消え入りそうな小さな声をおれが聞き逃すはずもなく、おれの抱擁から逃れる素振りすら見せないローに、おれは嬉しさを隠しきれずにキスをした。
「ロー……」
 キスを受け入れるローは、まだ逃げない。
「ンッ、ふ……っぅ」
 舌を入れて口内を堪能しても、背中に回される手に力が入れられただけで、ローは嫌がることも逃げだすこともしなかった。
「コラさ……っ、苦し……」
 ギブアップと訴えてローが背中を叩くまでディープキスを堪能したおれは、目を潤ませて恥ずかしそうに横を向くローに、先ほどまでのローと今までのローとの二人分の影を見た気がした。
「もう恥ずかしがって逃げねェんだな」
 そう言って頬にキスをもう一度。
「別に……」
 未だにおれに抱きついたままのローを膝に乗せても、ローの抱擁は解かれることはなかった。
「なんか、嬉しいかも。このままここで抱いてもいいか?」
 花火はとっくに終わっていて、周囲に人は誰もいない。
「なっ! い、嫌に決まってるだろ。何処だと思ってる」
「家ならいいのかよ?」
 吠えるローにニッと笑ってやれば、羞恥で唇を震わせたローがぷいっと横を向いた。
 その仕草を了承と受け取ったおれはローを抱き上げ、熱い唇にキスを落とす。
「お帰り、ロー。あと、これからもよろしく!」





END


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