03/10の日記

16:12
業火。
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パトリシア・コーンウェル著
相原真理子訳
(講談社文庫)

『業火』

ケイ・スカーペッタシリーズ。
怖い話だった……。


【ルーシー。】

なんかもう、
天才に生まれついちゃっただけで
相当量の苦労をしょいこんじゃっているのに!

若き日のあやまちが
尾を引いちゃってる系

の試練からは、
そろそろ解放してあげてほしい!

それにしても
ジャネットがあいかわらずカッコイイな。
ふところの広さハンパないのに、
男っぽいわけでもない。
女の中の女。

前に何かの番組のなかで、
かのマツコデラックスさんが、
「今言われてる男女平等って、
 今まで男がやってきたことを
 女もやっていいいよ、って言ってるだけよね」
と、
「結局その中で戦っていけるのは、
 男みたいになれる女だけなのよ」
と、
だいたいだけどこんな内容のことを言ってて、
なるほどなぁと思った。
 
 ということを、
 ジャネットとルーシーのあたりを読んだときに、
 ちょいと思い出した。

ときどき思うことだけど、
同性愛とかについても、
(以前に比べれば)
ずいぶん垣根が低くなってきて、

別に気にしないよ、
という雰囲気がマジョリティ側にも
だいぶん漂っているのだけれど、

それってやっぱりどうしても、
(結婚の制度とか、もろもろにしても)

「異性愛者がやってるみたいなことを、
 あなたがたもやってもいいですよ」

みたいな感覚になりがちで
(そもそもその部分には
 許可とかいらないはずなんだが)

だけどもしかすると、
ほんとの平等っていうのは
そういうところには
ないのかもしれないとか思ったり、
ちょっとする。

(それって、自分たちのいる高いところに、
 あなたがたも登ってきていいですよ、
 みたいなことばに聞こえるから、

 ええとそれは、
 お互いのかけているいろんな眼鏡を外しても、
 ほんとにそっちのほうが高いと
 確信できるのでしょうかとか、

 いやもっと言えば
 そもそも標高が高いほうがいいことだという
 その基準を無条件に信じても
 よいものなのでしょうかとか、

 なんかそういうことを考える。
 もちろん
 高いとか低いとか、標高がどうだとか、
 それらは全て比喩として)

これはあれなんだ、
恋愛系とかだけじゃなく、
いろんなことについて最近ちょっと思ってることなんだ。

自分の掲げる善悪の基準の
その秤を疑わずに
人を裁こうとすることが、

ずいぶんと多い世界に
われわれは生きている気がする。

なんつってな。

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