〈底辺球団シリーズ〉2

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「その、だから」
 わかったことがある、といったくせに、それは何だ、と聞かれたら、とたんに何もかも、俺にはわからなくなった。いったいどの辺から説明すれば、我儘じゃなく、傲慢じゃなく、この気持ちが聞太さんに伝わるだろう。
「俺──ボールが怖いんだって」
 そうそれは、昨日まで思ってもみなかったことだよ、聞太さん。
 どうして取れないのか──理由があるなんて、思ってもみなかった。
「ほんの少しだけど、こっちに来るタマにすくんじまって、それで出足が一歩、か二歩、遅れちまうんだって」
「──三沢が?」
「全部言ったわけじゃないけど」
「まああいつのことだからな、そうだな」
「わ──わかったからって、どうなるもんでもないかもしれないけど。プロにまで来て、自分から野球振れる奴なんかいねえって、言われた……から」
「ふうん」
 聞太さんの返事は、何だか気のない声で、俺は困ってしまった。なんだか、先が続けづらい。
「俺、ショート、もう少し、なんて言うか」
 三沢さん式に言えば、「フクシュウ」で済むんだけど。
「ショートで、怖い思いすんのも、悪かないかなって。怖がってばっかいるのも、カッコ悪いから、怖くなくなるくらいまではって」
 聞太さんはふうっと息を吐いて、
「野球振れる奴なんかいねえ、か──簡単なもんだな」
「え?」
「そんな簡単なことが、俺にゃ言えねえんだからな」
 笑ってる。笑ってるのに。
「俺は怒鳴り散らしたって、やめちまおうなんか言わせるのが関の山だ、後悔させんのが」
「後悔って……」
「だいたいお前みてえな能のねえ奴が、野球以外のなんで飯を食えるってんだ、世間では、球場とバッティングセンター以外に、ホームランが意味のある場所なんてねえってのにさ」
 いつもと同じ、辛辣な小言をくってるのに。俺は何だか。こんな意地悪を言って、聞太さんは、笑ってんのに。
 そうだ。この人がこんな目をしたのは。そして俺をこんな、困った気持にさせるのは。
 ──初めてじゃない。
「だから──戻ってきたろ、俺だってあんたが考えてるほどバカじゃねえよ」
「いいやバカだ。お前あの晩頭打って、どっかおかしくなったままなんだ」
 あの晩。
 自分で言った魔法の呪文に、聞太さんの、装ってた苦笑が解けるのを、俺は見惚れるように見てた。そうだ、あの晩も。ほんとに情けないのは俺だったのに、俺はこうして、この男のすがるような目に見下ろされて。
「──高木、お前」
 何だよ。
 俺は、息をつめる。
 どっか痛いのかよ、何か辛いのかよ。あんたはそんな顔、しちゃ駄目なんだよ、わかってねえのか──自分がどんなに、おれたちを夢中にしたか。自分がどんな、スーパースターだか。
「お前俺と一緒に来るって言っただろうが、俺と野球すんだって言っただろうが。今更」
 待てよ、聞太さん、それは俺のセリフ。
「今更後悔なんかすんなら、なんであの時──俺になんか、ついて、来たんだよ……」
 この目は。あの時と同じだ。
 あの夜。
 俺はすっかり死んだ気になって、それにしちゃ頭はガンガンするし、膝からは血ぃでてるみてえだし、ほっぺに当たってるのはさっきまでまたがっててハデにすっころんだあの自転車のハンドルみてえだし──それに、やけに、眩しいし。
 俺のとの同じ、バットの握りだこのあるざらざらした手のひらが、俺の頬に、ふれた。
 そして、数時間前に俺を死ぬほど絶望させた、会いたくてたまらなかった俺の英雄の顔が、そう、ちょうどこんなふうな目をして、俺を見下ろした。
 その人の両腕ががたがた震えていて、その振動で俺は、自分がやっぱり生きてるし、そうたいしたケガもしてないとわかった。自転車の急ブレーキでつんのめって、頭から地面に転げ落ちただけだったのだ。車は俺より2メートルも手前で止まっていた。
 だんだん頭がはっきりしてくる。どう見ても、俺を抱え上げてるのは橋本聞太に見える。
そして。
 目をぱちくりさせる俺の名を、呼んだこの人の声を。俺は一生忘れない。
 ──タカギマモル。
 文字でしか知らない名前を声にするときのかたい口調で、橋本聞太は俺を呼んだ。呼んだというより、自分に確認するための独り言だったのかもしれない。それは丁度、当時俺がこの人のことを、ハシモトブンタ、と呼んでいたのに似ていた。
 ──橋本、さん……?
 何が起こっているのかわからなかった、もしかしてやっぱり死んだのかもしれないと思った。
 ふ、っと、気合いみたいなため息みたいなものが聞こえて。俺を支えている聞太さんの腕から急速に力が抜けるのがわかった。まだ少し震えていた。俺はそうして、この人のこんな目の意味がわかった。
 怖いんだ。
 どっか、痛いんですか、何か、辛いんですか。そんな顔しないでよ、俺にできることなら、何でも、何でも、するから。
 ──橋本さん……?
 ──俺──
 やっと、ハシモトブンタは、こわばった笑顔を見せた。
 ──タカギマモルを、殺しちまったかと思ったぜ。
 迎えにきたはずなのに、殺しちまったかと……

「──怖いの?」
 言ってしまってから。俺は唇をかんだ。何言ってんだ、俺。
 聞太さんはその、俺に初めて会った晩を思い出させた目を、恥じるみたいに伏せた。そして言った。
「そうだ、怖いんだ」
 怖いんだ。
「後悔──してんのは、聞太さんのほうじゃねえの? 俺のこと──拾ったの」
「──ああ……」
 ──後悔。
 自分で言っておきながら、俺は傷つく。
「俺が──ちっとも上手くならないから? あんたが、期待したみたいに、いい選手じゃないから? 練習嫌いだから?──失望、ってやつ」
 責めるような口調に、ならないように、何気なく、言ったつもりで。でも、やっぱり、声は震えた。
「聞太さん俺のこと──もういらねえんだ」
「馬鹿──馬鹿言え」
 聞太さんはあわてて、それから言葉を絞りだそうとしてるみたいにこめかみの辺りを押さえた。
「俺は。お前が俺のせいで駄目になるんなら、いっそ、最初っから、もっと」
 何。何言ってんだ。
「怖かったんだ、ここんとこずっと。だんだん──そうだだんだん、お前、野球してて笑わなくなって。あんな楽しそうだった、あんな好きだった野球、今は義務みたいにしてやってる。限界なんじゃねえかって、今までも何度も思ったけど」
「聞太さ──」
「──俺は俺が間違ってるんだって、認めるのが怖かったんだよ。俺は俺の野球を、お前に伝えたくて、教えたくて、わかってほしくて──だけどできることと教えることは違うって、そんな当たり前のことが、わかってなかった──わかってたけど。怖かったんだ」
 違う──そうじゃない。
「あの時お前が、普通にもっと、強いとこに入ってたら。俺じゃなく、もっとふさわしい指導者のいるとこで、この同じ三年を、過ごしてたら。お前を、育ててんのが──アイツだったら」
 聞太さんじゃなく、他の誰かの。野球を信じて、俺が強くなる?
「やだよ」
 気づいたら、聞太さんのTシャツの胸元を、生地が伸びちまうくらいにぎゅうっと、握り締めてた。この手を、離したら、野球を続ける意味なんかなくなる。
「ほんとに後悔してんなら」
 ──俺は。
 自分でも、思ってもみなかったことを、した。心のどこかでそれに驚いて、だけど全然不自然には感じなかった。どうしても、こうするよりなかった。
 激情は焦りに吹き上げられるようにして、今までどうしても真っすぐには表現できなかったこと、この俺の手には余る、あふれかえって手におえないほどの、突き上げるような、どうしようもない、憧れ、尊敬、畏怖。それはその切なさと野球のしみ込んだこの体を、直接ぶつけるようにしなければ伝わらない気がした。
「やめちまえって、言ってよ、聞太さん」
 座ったまま、首だけのばして押しあてた唇を、一瞬で離して俺は続けた。聞太さんはTシャツの胸を引きずられて、中腰になった不自然な姿勢のまま凍りついた。
「俺。聞太さんがいいんだ。聞太さんじゃなきゃやなんだよ、聞太さんの野球が無理なら俺──やめちまった方が、うんと楽なんだ」
 言葉で言えないことをいきなり行動で表現しちまうなんて、聞太さんのこと言えねえ、俺の頭だって相当にサル並みで。
 だけどそれは、まるで喧嘩するときみたいな昂ぶりで、荒っぽさで、結果なした行為にかかわらず、俺の中にはほんの少しの色気もなかった。
 聞太さんに恋してるなんて思ったことはねえし、一方的にこうして世間でキスと呼ばれていることを、発作的に、してしまった後も、それが恋だとは全然思えなかった。
「高木──」
 この人が、俺にとってものすごく大事な人だとは知ってた。ハシモトブンタより他に、自分が何も見えてないことも。俺がたった一つ才能と呼べるものだった野球だから、その頂点に立つ男は、俺の世界の神様だったのだ。俺にとっては、たった一つの価値尺度。橋本聞太。
「俺のこと、面倒みきれなくなったんなら、もてあましてるんだったら、あんたが側に置いてくれないなら」
 たとえそれがあんたの言うように、俺の才能が足りないせいじゃなくて、その逆だからなのだとしても。
「俺は野球なんて、やめちまうからな」
 それ以上は、涙をこらえきれないような気がして、そんなカッコ悪いことにならないうちに、俺は聞太さんの部屋を、飛び出していた。

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