〈底辺球団シリーズ〉2

□『ファンキー・モンキー・ベースボール!』 6
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 俺の重荷、全ての厄介の元凶。大嫌いだ。三沢さんのいるべき場所。吐き気がする。
 ──ショートストップ。
 そうだ、それは確かにフクシュウに値した。
 俺はグラブを借りて、内野の黒土を踏みしめるようにしてその場所に立った。
 三沢さんは俺の真正面に軽くゴロを打ちながら言う。
「決まったところに立つなよ」
「は?」
 ノックといっても球を渡す補助役も球ひろいもいないから、一球一球、ものすごく緩慢になる。
「ショートってのはさ──日本語で言ってみろや」
「──ユウゲキシュ?」
 簡単な打球をさばきながら俺は答える。みんなこんなタマなら、俺もそうそうエラーしやしないのにな。
「その通り。唯一さ、遊んでいいポジションなんだよ」
「?」
「ほかのトコは。全部言えっか」
 あたりまえだ。
「投手──捕手。一塁、二塁、三塁手。左翼手、右翼手、中堅手」
「な」
「──?」
「わかんねえかな」
 三沢さんは俺がアンダーで投げ返した球をそらして取りにいきながら、
「野球ってな陣取りゲームだからさ。守りの回には皆、守んなきゃなんねえ陣地があるだろ。足縛りつけても、守んなきゃなんねえ、陣地がさ」
「──はあ」
「だけど、俺たちはそうじゃねえ」
 また。俺たち、という言葉が気になって、高いバウンドの球をそらした。
「俺たちはさ、ブラブラしてても許されんだよ。だからな、型にはまらねえってのが絶対の条件さ、ショートのな、それも、いいショートの。打者と、投手のコンディションと、試合の状況と、風の向きと──考えんじゃなく肌で感じて、よくわかんねえけどココだと思うところに構える、多少定石なんか無視したってかまわねえ、ヘマしたって口笛でも吹いてろ、それがショートだ」
 初めて聞く三沢さんの遊撃論は、世間が三沢さんに対して抱いてるイメージとはかけ離れていた。緻密で安全で余裕にみちた守備。一人でサードからセカンドまでほぼ全域をカバーする鉄壁のショートストップ。
「ショートってのぁ、ゲリラのことさ。ハナっから遊撃隊をあてにしてる指揮官なんてのはヘボだろ? いつどこにあらわれるかわからねえ、だからこそあらわれたときにゃ神さま仏さまだけど、ほんとに勝ちたきゃ計算からは外す、それが安全なやり方ってもんだ。だからこそゲリラは多少危ない賭けをしても好き勝手に動けるし、結局はその方がうまく行くんだよ、1シーン1シーンは知らねえが、トータルじゃあな、わかるか」
 わかるような気もしたけど、ギリギリ左の打球に横っ飛びしていた俺には返事はできなかった。
「ナイスキャッチ!──だからほんとは、ショートに必要なのは冷静さとかデータとか、堅実なプレイなんかじゃねえと俺は思ってる。むしろさ、度胸だろ、それから厚顔だな。誰に何を言われても、口笛吹いて一晩寝りゃ忘れられる。鈍くなる、できるだけ鈍くなる。世間で言うような繊細なプレイなんてくそくらえだ、フトくなることだよ、他じゃない」
 必死で捕ろうとした次の球が足の間をすりぬけて、俺がそれを追おうとすると、三沢さんはよし、オワリ、と言った。
「下らねえコト喋っちまったな。企業秘密だからな。だけどお前はもうやめるそうだから、特別だな」
 俺はボールを拾うと、複雑な気持ちでそれを見つめた。
 何球くらい受けたんだろう、長袖のシャツが体に張りついて気持ち悪かった。
 最後だから、最後だから──こんな真摯にノックを受けたのは、どれくらいぶりだろう。
 三沢さんの言葉一つ一つが体中にしみた。上手くなりたいと思った。上手くなって、俺を捨てたこのポジション、この野球にフクシュウをしたい。自分がみじめなことが、辛くない気がした。
 三沢さんはそんなことの全てがきまぐれにすぎないといったように、また一人ティーバッティングを再開していた。
 俺は絞れそうに濡れたシャツを脱いでTシャツに着替えた。
「──手伝いましょうか」
「ん──おう」
 一球一球、打ちやすいようにトスをあげるのが、こんなにしんどいとは知らなかった。中腰で、目は相手のバットスイングと水平の位置にくるようにして。聞太さんを思い出した、バクダンみたいな腰を抱えて、あの人は毎日、こうして〈ダゲキコーチ〉を。現役だった頃の自分に比べれば屁でもないような選手たちを、真剣に指導している。
 それは、どんな不条理に思えることだろう、あの人は、あんな才能を腕いっぱいに抱えながら、野球選手としての寿命を全うすることさえできなかった。
 それに傷つくのはよそうと、あの夜ああして振り切ったのにもかかわらず、もう一度涙があふれてしまうのをどうしようもなかった。三沢さんはそれに気づかなかったか、少なくとも気づかないふりをしてくれた。ボールを見ながら、さらりと言う。
「お前さ、昔は外だったんだって?」
「──社会人時代は。ライトでした」
「ずっと?」
「────いえ」
 コンバートの話で、あんな大ゲンカをしてしまったから、こんな風に聞くんだろうか。
「高校では、サードも。リトルリーグではピッチャーだったし」
「ふうん」
 三沢さんは打者としては確かに、それほどではない。ミートの感覚はさすがベテランだけあってしっかりしているが、ヘッドスピードが足りない。こればっかりは努力でおいそれと養えるもんじゃないのだ。
「──何かさ、大きいの、あたったことでもあんのか」
「大きいの?」
「デットボールさ」
 ああ、と俺は肯いた。
「プロんなってからは、それほどないですよ。大ケガはしたことない。イタいのはありましたけどね、この、足の、先の方とか」
「入る前は?」
「んん──いちばんデカかったのは、高二の時」
 地区大会であたった、それほど強くもないチームのノーコン投手の球が、顔の近くに来た。俺はその頃絶好調で、ボールがよく見えていたこともあって、ギリギリまで打ち気で、内角におおいかぶさるように構えていて。
「よけらんなくって、ガーンと。ヘルメットの、耳んトコあたって。ヘルメットが飛んで、目のまわり、パンダみてえになっちゃって。でもハレただけで、どうってことなかったんだけど」
「ふう、ん」
 三沢さんは小さく肯いた。
「目な。そりゃ怖ぇわ」
「──でも、なんで?」
 俺がトスしたボールを打たずに手で止めて、スコアボードの時計を眺める。そろそろ皆、起きだす頃だろう。
「帰るか」
 〈帰る〉。俺はうつむいた。
「──三沢さんは、どうして、こんな、早くに?」
 三沢さんは笑った。さっき見せたのと同じ、困ったような笑み。そうそう見せる表情じゃなかった。
「練習なんか、してみてえ気分だったのさ。めちゃめちゃに野球がしてえんだ。──俺もな。本気でフクシュウしてえんだ。俺を選ばなかった、野球の女神さんにさ」
 野球(それ)が女神だというのなら。
 と、俺は思った。三沢隆に振り向かないでいられる女なんか、いるんだろうか。
 この人に、こんな風に、痛いくらいに惚れられて。この人を選ばずにいられる女が、いるだろうか。
 ちょっとの間だけ、沈黙が続いた。俺は言ってみた。
「三沢さんは、気づいてないだけだ」
「ん?」
「野球の女神っていうのは、どんなかしらないけど。ショートにも、いるんでしょう、そいつ」
 三沢さんは戸惑ったように目をぱちくりさせた。
「三沢さんは、俺なんかから見たら、悔しいくらい愛されてんのに」
 ──愛されてんのに。
 言ったら、涙がにじんだ。言っちゃいけないことだった。
 わかってたから、言っちゃいけない。誰が愛されてて、誰がそうでないか。
「ヤキモチのつもりか」
 三沢さんは屈託なく笑った。俺はうろたえた。
「な──何言ってんスか、気持ち悪いな」
「麻人も言ったっけな、似たようなこと」
「?」
「俺とあのサルはさ、どういったわけか昔っから気が合って、二人して酒飲んで遊びまわって、ムチャクチャやるような仲だったさ。文字どおりな、親友だって照れもしないで言えるけど、周りが思ってるほどの理解は──通ってねえ。だけどお互い、それわかってて、それでもこうだからな」
「──リカイ」
「俺たちは決定的なトコで違ってたからな。めちゃめちゃわかりあってるけど、全くわかりあえない、それは永遠にだな」
「違ってたって?」
「野球がな。違ってた」

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