鳴るは鈴の音、男は角刈り。

□§3 川上さん、稽古を休む。(1)
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「……それは、もったいなかったねえ」
 マシンの吐き出したエスプレッソをすすりながら、サバ兄が呑気な口調で言う。ちなみに本日のお衣装は、紅ヒワ色のスパンコール付き。
「もったいなかったとかは、別に、いいんだって。ただ、〈先生〉が、休んでるの、オレのせいだったら、困るなって思って、相談してんじゃない」
 川上さんとの、キス未遂事件から十日め。柔道教室は学年ごとに月・水・金だから、今日を入れると都合五回、みごとに、きれいに、川上さんは姿を見せず。本日とうとう、学生時代の後輩だとかいう、代わりの指導員があらわれ、現在進行形で、高学年の稽古中。
(避け方も、ものすごく、まっ正直……)
 自業自得とはいえ、やっぱ、けっこう、ヘコむ。
「だけど、別にすげぇモメたとかじゃないんでしょ?」
「うん、それはもう、全然。結局、コーヒーも飲んでってくれたし」
「──マジで?」
「……マジで」
 実際、あの人の考えていることは、オレにはさっぱり、理解できなかったのだ。最初から、最後まで。
「嫌だ、って、言ったら……なんか、ほんと、あっさりと。こりゃ失礼、みたいな感じで」
「こりゃ失礼、と」
「そうは言わなかったけど。ノリ的には、そんな感じで」
 ベルちゃん、言いにくいんだけどさ、と、サバ兄は、珍しく真剣な表情で、何を言うのかと思ったら。
「それ、全部、ベルちゃんの妄想でした、っていう可能性、ないかな」
「ないよ。失礼な」
 ──っていうか、その可能性だって、とっくに吟味したよ。だけど。いくら妄想癖が拡大したって、夢見がちなだけでわざわざ、とっときのカップ出して、二人ぶんのコーヒー淹れて、両方きれいに飲みほしたとは、やっぱ、思えないし。それに。
「妄想だったら、もっと都合のいい展開になってるよ」
 オレの部屋で、あんないい男と、二人きりで。キス程度で終わらせるはずがない。いや、キスですらないんだった、未遂でごきげんようとか。マジで、日向柊司の、名がすたる。
「そりゃそうか」
「じゃあまたパライソでね、みたいなこと、言ってたのになぁ……」
「勝手なこと言って。てめぇでフっといて、これからも仲良くしてね、みたいなキープ感とか、小悪魔がすぎるよ?」
「だから、そういうんじゃないって。ほんとに、全然、気にしてない感じで」
 サバ兄には、どう説明しても、分かってもらえる気がしないけど。途中の成り行きがどうあれ、結果的に。ほんとに振られたのはオレのほう、という気が、どうしても、するのだった。

「ごめんなさい、ほんとにごめんなさい、オレ」
 ──と。病弱は嘘だけれど、腕力的には平均点を軽く下回るベルくんとしては、これだけ体格差のある相手に抱きしめられちゃうと、せめてもの距離感を保とうと、両手をつっかえ棒代わりにするくらいしか、方法がなくて。それにしても、キスされる、寸前に、相手の両肩つかんで止めるとか。何だろう、拒むにしたって、もうちょっと、何か、色っぽいやり方が、あったはずだ。
「ええと」
 涙目で見あげる俺を、困った顔で、見下ろして。川上さんは、訊いたのだ。まっこうから。
「──嫌、ですか?」
 嫌では、ないです。ああ。こんなに嫌じゃないことが、この世にあろうかと思うほど、嫌じゃないのです、それなのに。
 なんでオレ、今回は、こんなにいい子ちゃんなんだろう。ごめんなさい、と、肯くと。ああ、そうですか、と。少しだけ残念そうに呟いて、川上さんはオレから、全面的に手を放した。
 そうして、川上さんが、一歩だけ、離れると。秋だからか、体中が、すうすうして。風邪をひきそうな、気がした。
 言いたいことは、たくさんあったのに、オレは、なんだか、どれも、言えなくて。
「あの、コーヒー……冷める、前に」
 何言ってるんだろう、と、自分でも、思ったけど。川上さんは、ちょっと笑って、そうでしたね、と、言った。
「せっかく淹れてくれたのに。悪かったです」
 このひとの、あらゆる思いがけない行動は、その仕草があまりにもナチュラルだから、余計にオレを、ドキドキさせる。オレとは違うルールの国で暮らしてるひとみたいに、思えて、仕方ない。
 今もまた、簡単に、テーブルに戻って。座る位置だけを、少し迷って、手前の椅子を引いて、腰を下ろす。その自然さにつられるように、オレも。とっくに落ちきっていたコーヒーを、微かに震える手で、カップに注ぐ。こぼれるほどではないけど、ほんの少しさざ波を立てるその震えに、川上さんは、やっぱり、ちょっと困った顔をした。
「大丈夫です。もう、触らないから……もう、分かりましたから」
 分かったって、いったい、何を。どういうふうに、分かったって、いうんだろう。オレの名前すら、呼びたいように呼んでいた人が。
「いただきます」
 武道家の掌の中で、マイセンは、いつもより少し、小さく見える。そして。
 湯気の向こうから、あがる、小さな、だけど確実な、満足の吐息。ああ、オレ。もう、いいや。今、それを、美味しいと思ってくれたのなら、もう、それでいい。
「これ。今まで飲んだ中で、最高に、美味い、コーヒーです」
 にこん、と、本当に。相変わらず、何の嫌味もない顔で、笑ってくれた。
「大げさです」
「いや、ほんとに。たぶん、これから先も、こんなに美味いと思うこと、ないんじゃないかな」
 川上さんは、ただ。コーヒーを、美味いと、言っている、だけだ。それなのにオレは、なんだかそれを、愛の言葉のように聞いて。顔を上げられなく、なってしまう。
 少しだけあいた間をもてあましたみたいに、川上さんは、そうか、こういうのも嫌かな、って、言う。
「……俺は、身体がデカいから。君みたいな、細い人から見たら、圧迫感があるんでしょうね」
 そんなつもり、全然なかった。だって、オレが、この人の大きな身体から感じるのは、圧迫感じゃなくて。もっと、セクシャルな、
「さっきは、ものすごく、早まりましたが。嫌なことを、ムリにしたりは、しないですから」
 セクシャルな、高揚感、だから。
 だから、オレは、緊張して。その緊張感で。オレ自身の恋心が、空気に溶け出して混ざってしまいそうで、そうしてこの人に伝わってしまいそうで、不安になるんだ。ただ、それだけ。
「君は……すごく、ニコニコ、するでしょう」
 ためらいがちに、たぶんすごく言葉を選びながら、川上さんは、優しい声で言う。
「お店に、いるときも。目が合うと、ちょっとドキッとするくらい、可愛い顔で、笑う」
 ちらっとだけ、顔を上げると。川上さんは、カップの中を見つめていて、コーヒーに映ってる自分に、話しかけてる、みたいだった。あ、ちょっと、笑った。
「最初はそれで、少し、誤解しました」
 ……伝わってた。伝わってたら、いけないのに、伝わってたんだ。オレが呑気に〈観る用〉の、どうのこうのと、はしゃいでいたときに。この人は、オレの出す、動物みたいな、好き、とか、欲しい、を、敏感に、受け止めて、くれていた。
「だけど、鯖沢さんのために、大きなところの勤めをやめてきたって、聞いて。それと、何だか、鯖沢さんと話してるときの、君は。少し、違ったから」
 猫、かぶってたのも、はがれたのも、こんなにすんなりと、受け止められてしまう。
「ああ、俺のは、仕事用のヤツだったんだなあ、と、思った。そう、思ったら、何だか、寂しい気がして。ザワザワ、しました。初めての感じだったんで、よく分からなかったけど。あれは、たぶん」
 ヤキモチって、言うんですよね。
 そんな、すごいことを、ずいぶんと、あっさりと言う。

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