鳴るは鈴の音、男は角刈り。

□(3)
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 え? と、オレもサバ兄も、同時に〈先生〉を振り返る。まったく、何の含みもない、まっすぐな意味あいで、言っている。……爽やかが、柔道着を着て、ブレンドを飲んでいます、神さま。
「あ、いや、ええと、興味っていうか……」
 興味があるのは、あなたにです。と、言ったら、いったい、どのような展開に。いや、どのような展開にもならないことは、ようく、分かっているのだけれども。
「見た感じ、華奢だし、お洒落だし、格闘技とか嫌いかなって思ったんですけど」
「あ、いえ、そんなことは、ないですけど」
「良かったら、自分、教えましょうか」
 ────!?
「実はそんなに、強くはないんですが。ここ何年か、子供たちとやってますんで、初心者の方に教えるのは、たぶん、けっこう」
 得意ですよ?と、微笑まれて……即座に脳内に流れ込む、妄想という名の麻薬。
 夕暮れの格技場。居残り稽古。オレと〈先生〉くらいの階級差だと、がんばって練習しても、簡単に投げとばされちゃって、空想の中のオレは実際より5割増しどんくさい設定で、受け身もロクにとれない、ことにしよう。大丈夫か、と、駆け寄ってくれる先生……(すまん、つい本気で投げてしまった)。(平気です。オレが、オレが弱いから……)。(──血が、出てる)……投げられたはずみに歯が当たったらしく、妄想上のオレは唇の端から血を流している。それを、〈先生〉は、最初は手でぬぐってくれようとして……でも、ためらって、その手はオレの頬に添えて……で、口元の、血の方は、そっと、優しく、唇を寄せて……
 とか!!
「無理!」
 駄目!!
「ムリです、いやオレ、絶対ムリですから」
 だってこの人、子供いるんだもの!
「いや、そう決めつけなくても……ゆっくり練習すれば、だれでも、そこそこは」
「いやほんと、だって柔道って」
(寝技とかあるし)
 子供いるっていうことは、既婚者だっていうことで、既婚者だっていうことは、異性愛者だっていうことで。ていうか、じゃなきゃこんなに簡単に、レッツ柔道!っていうわきゃない。レッツ柔道ウィズ自分! いや、ノーです、ノーサンキューでお願いします。
「み、観る用、で、いいんで……」
「──〈観る用〉??」
 ものすごくたくさんの「?」を浮かべている〈先生〉に、吹き出しかけたサバ兄は、しばらくゲホゲホ苦しんでいたが、そこはまあ、大人と、言えば言えるのか、咳き込みと咳き込みの間から、そのコ、ほんとにムリなんで、と、優しいんだかなんなんだかわからないフォローを入れてくれる。
「……ピアノ、弾く、とかですか?」
 あぁあ、発想が、ものすごく、可愛い。
「いえ、ピアノは、弾きませんけど……」
「ビョーキ持ちなんで」
 ようやく落ち着いたサバ兄の言葉に、呆然とするけど、ええと、まあ、この際。そこが一番、落ち着きがいいか。
「病気?」
「あ、ええ、ええと、そんな、大げさなアレでは、ないんですけど、柔道、とかは、ちょっと……」
(寝技とか、あるし……)
「あ、そうですか、すみません、自分、なんか、無責任なことを」
 いいひと! いいひとすぎて胸が痛みます!
「や、いやいやいや、全然、そういうのでは、なくって、」
 胸を痛めているオレをよそに、ああでも、ウツらないやつなんで、大丈夫ですよ、と、オーナーはまことに心ない安うけあいをしている。
「でもま、そういうワケなんで、この子、教室のほう、チラチラ覗くかも知れませんけど、悪気ないんで」
 ……悪気、は、ないけど、下心はあるかも、しれませんけど?
「ああ、いや、それは、もちろん」
 構いません、いくらでも見てください、と、盛大なスポーツマン笑顔と、覗き見解禁のおゆるしが出たところに、
 パタンパタン、と、玄関のガラス戸が押されて、小さなつむじ風が駆け込んでくる。パラレル感満載の、〈先生〉のミニチュア版。締めている帯が白いところは違うけど、くっきりした眉、大きな笑顔、礼儀正しい挨拶。そして目にも涼やかな、角刈り。
「おはよーございます!」
 おはようございます、と、挨拶を返すと、わー、ベルちゃんだ、と、ニッコニコで駆け寄ってくる。こっちも、覚えててくれたか。
「おう太郎、早かったな。飯食ったのか」
 この平成の世に。わが子に「太郎」という名をつけるそのナイスセンスを思う。
「うん、親父は?」
「食った。よし、皆が来る前に道場掃除するか」
「うん!」
 パタパタパタっと駆けて行く背中を目を細めて見送ったあとで、〈先生〉は……〈親父〉は。同じくらいあたたかい目でオレを振り返るから。妄想まみれの汚れた自分が見すかされそうで、さしものベルちゃんスマイルも、すこしだけこわばる。
「おいくらですか」
「あ……まだ、休業中なので。今日のは、サービスです」
 そういうわけには、と、困った顔で振り返られて、いいのいいの、俺も払う気ないし、と、サバ兄が笑う。〈先生〉は、じゃあ、と言って立ち上がって。ごちそうさまでした、と、きちんと、頭を下げる。所作の一つ一つが、芸事のようだ。
 格技場に向う広い背中に見とれていると、〈親父〉ねえ、と、サバ兄が呟く。
「……ゲイは、ビョーキじゃないよ、サバ兄」
「分かってるよ。ビョーキつったのは、妄想癖のほう」
 それについては、口答えの余地もない。
「知らなかったなぁ、あのセンセ、ずいぶんデカい息子がいンだね」
「カラダ大きいけど。三年生だって」
「へえ。……知ってたんだ」
「こないだ来たときに会った」
 というか、あの子の方に、先に会ったのだ。今時角刈りの子供だ、可愛いな、と思って眺めていたら、てくてくてく、と歩いてきて。めっちゃ早く着いちゃった、親父が来るまで、座ってていい?と、訊いて。ちょうどさっき〈先生〉が座ってた、あの同じスツールにちょこんと腰かけた。ゲームでも始めるのかと思ったら、店の備品をチェックしているオレの動きを、面白そうにじろじろ眺めては、人なつっこく話しかけてきて。
 だから、オレは、知ってたんだ。あの人が、ここに現われるよりも先に。次に入ってくる人は、小学生の息子がいる、柔道サークルの〈先生〉だって。あの人が視界に入る前に、オレはそれを、知っていて、知っていたのに。
 西向きのガラス戸を開けて入ってくる、太郎くんの〈親父〉の、背負っていた夕日に、少しずつ目が慣れて。逆光の中の、その柔道着のひとの大きな笑顔に、なんだか、心臓が、大きくひとつ、ドキンと、鳴る……前に。オレはそのひとが、自分には手の届かないひとだと、知っていた。知っていたけど。
「……珍しくモジモジしてると思ったら。妻子もちかぁ」
「サバ兄、あのさ」
「小悪魔ベルちゃんの、唯一の倫理則だもんな」
「変な呼び方しないでよ」
「二股三股あたりまえ、パートナーがいようがノンケだろうがおかまいなしで狙った獲物は決して逃さない、けど」
 そう、だって、人生は短いし、ドキドキできるようなイイ男の数にだって限りがある。だから、好きになったらそこは戦場、なわけで、ルールなんてないと、思っては、いる。けど。
「子供のいる男にだけは、手を出さない、んだよね?」
「別に、そんなこと、決めてるわけじゃないけど」
 決めている、わけではないけど。平穏な家庭から、ある日父親がいなくなる驚きを、経験した、ムスコ、の側としては。なんとなく、やっぱり、あの衝撃のセリフだけは。他の誰の口からも、言わせたくなかった。他の誰の耳にも、聞かせたくなかった。〈父さんな、母さんのほかに、好きな人ができた〉。
「〈観る用〉のオトコだって、いても、いいんじゃない?──って、思ってるだけだよ」

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