ココロノコリ

□(7)
1ページ/1ページ


 みゃあおう、と、夜の底から甘い声がして、雄大は足元を見下ろす。サンダル履きの雄大の足にするりと身を寄せる、猫の毛皮のしなやかさが、自分にはもう本当の触覚はないのだろうことを忘れさせる。
 川村の小さな顔から目をそらさせてくれたことに感謝して、雄大はその猫の、小さな白い身体を抱き上げる。
「うわ、あったけぇ」
 そう口にしてから、そういえば川村の言うとおり、なんだか少し寒い気がすることに気づく。晴れた夏の宵だというのに。
 腕を返してじゃれつく猫を遊ばせていると、川村が小さくつぶやいた。
「さっきの猫……」
 事故の話から川村の気がそれたことで、雄大も少しだけ緊張を解く。
「死んでても、猫にはさわれるもんなんだな」
 ビロードのような背中に頬をつけ、ピンと立つ小さな耳に口をつける。雄大は、生きているものが好きだ。
「伊東くん、それ、たぶん……」
「飼い猫だな。馴れてるし、毛並みいいし」
 川村は、言いかけていた言葉をのみこんで、うんそうだね、と肯いた。
 雄大は猫を前脚でぶらさげ、下腹をのぞきこんで確認する。
「オスだな」
「え……」
 たったそれだけのことで、川村はふわりと赤くなる。
(──可愛いな)
 そう思ったのが表に出ないように、雄大は手の中の猫をめちゃめちゃに撫でる。猫は心地よさげに雄大を見上げ、撫でれば撫でるだけ鳴いた。何かに飢えていたように身を寄せる小さな身体から、わずかに鼻にかかった甘い鳴き声が、夏の夜にこぼれでる。
「え。あ、れ……?」
 みゃあ、みゃあ、と──一声鳴くごとに、猫の満足がこぼれて流れて、夜に溶けていく。その甘い一声ごとに、雄大の掌の中で、猫の存在が薄くなる。そして。
「わ。消え──!?」
 ひときわ高く一声鳴いて、夜の底で小さく光っていた白い猫は、雄大の指の間をすりぬけ、昇華して、夜の空気に戻っていった。
「やっぱり……」
 猫の消えた先を追うように、川村の視線が空をさまよう。その先で、きりきりに細い三日月が、砥がれた刃物のように雄大を見下ろしている。
「やっぱりって、何だよ」
「死んでたから、さわれたんだと思う。死んだ猫だったから」
 雄大は、急速に仔猫のぬくもりの薄れてゆく自分の両手を見下ろした。
(死んだ猫……)
 死んだ猫を抱き上げることができるのは、自分が死んだ少年だから。その事実が身に染みて、少しだけ、手が震える。
 雄大の寒さがうつったかのように、川村もきゅっと両腕で、自分の身を抱いた。
「撫でてほしかったんだね」
「え?」
「今の猫。さっき、うちの方でも見かけたんだ。もしかしたら僕についてきたのかもしれない」
「──へぇ」
「死んでるみたいなのに、普通にトコトコ歩いてるから、こいつにも心残りがあるんだなって……消えられないんだなって、思ったんだけど」
(心残り)
 川村の口から発せられるその言葉は、なんだかやけにさらりとしていて、雄大をやるせない気分にさせる。
 ──心残り。
(川村にも、あるのか)
 そうだ、川村にこそ、それはあるだろう。学年で一、二を争う秀才だ。のんびりした田舎の高校で、トップクラスの国公立大学を目指せる数少ない生徒だと言われていた。一流大学へ行き、一流企業へ勤めて、巡分満帆の人生を送れたはずだ。その、川村若葉の。
(最後の一年だったんだな)
 自分が土足で踏みにじり、教室の隅でうつむかせていた毎日は、川村若葉の人生の、最後の一年だったのだ。
「可愛がってほしかったんだね」
「──え?」
「猫。だから、伊東くんが撫でたら……」
「ああ」
 つられたように、雄大も細い月を見上げる。
「満足して、成仏したのか、あいつ」
「たぶん、そうだと思う」
 川村の言うのが本当だとして。あの猫は生きている間に、どれくらい愛されて暮らしたのだろう、と、雄大は思う。日々撫でられて、愛され尽くして暮らしたから、最後にもう少し甘えたかったのか。それとも、生きている内には与えられなかったものだから、生涯の無念として小さな魂に刻まれていたのか。──愛情、それとも、ささやかな愛撫。
「伊東くんはすごいね……」
 川村の呟きに、雄大は困惑する。
「は?」
「僕は、だっこしてあげようなんて、思いもしなかった」
 それは単に猫が好きか嫌いかの差なのではないかと言いかけて、雄大はもっと重大なことに気づく。
「おい。ってことは、俺たちも、そうってことか?」
「え?」
「なんか、やり残したことがあるから、成仏できなくてふらふらしてんのか」
 ほんのわずか、迷ったような沈黙のあとで、川村が、小さく肯く。
「だって、僕ら、賭けをしたでしょう?」
 結末を知る前に、暗闇にかき消された賭けを。
次の章へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ