ココロノコリ

□(4)
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 きっかけは、実にささいなことだった。
 倉庫からひっぱりだした給水用のホースが、ほんの少しだけ短かったのだ。
「くそ、足んねぇな」
 一年前の夏。今より少しだけ、早い季節のことだった。高一だった雄大の髪は既に金色に近く、左の耳には二つ目のピアスが光り、その代償として毎昼休み、校庭の花壇に水をやること、と宣告された。
 まだ何もかもが壊れだす前、雄大は明るい不良だった。成績はお世辞にも良いとは言えなかったけれど、クラスメイトともうまくやっていたし、生活指導の教師とも、いわば仲良くケンカする間柄だった。
 その日も昼休みの終わるころ、素直にグラウンド脇の倉庫からホースを担ぎ出し、洗車用の蛇口につないだ、ところまでは、良かったが。くるくると伸ばし切ったホースの先は、花壇の手前の端からも、まだ二メートルは離れていた。舌打ちして、別のを取りに倉庫に戻ろうかと思ったところへ、予鈴が鳴る。
(ま、いっか)
 雄大はニヤリとして、勢いよく蛇口をひねった。言われたのは、花壇に水を撒けということだけだ。手順については、指定されていない。
 水の勢いで躍り上がるホースを捕まえて、先端を抑えて絞る。出口を狭められた水が、空へ向けて高く飛び散った。霧吹きのような細かな滴が、大きな弧を描いて花壇へと向かう。その頂点で、人工的な虹がきらめく。
「ひゃっほー!」
 意味のない歓声が口をついて出る。既に花壇への水やりという目的を忘れ、できる限り高く、遠くへ水滴を飛ばす。自分を中心に、世界中に水を撒こうと、高々とホースを掲げたまま、くるりと後ろを、振り返ると。
「わ!?」
 落ちかかる水の弧の真下に、同じクラスの、川村若葉が、立っていた。
「うわ、ちょ、待って!」
 言葉もなく呆然とこちらを見返す川村の手に、黄色い表紙の文庫本が握られていた。濡れて額に張り付いた髪が、いつもよりいっそう黒く見えた。
(こいつ、超絶ドンくせぇ)
 雄大が、慌ててホースの口をそらしたときには、川村は初めに立っていた場所から微動だにせず、頭から足先まで、全身ずぶ濡れになっていた。
 悪ィ、と口にしかけたとき、川村の手から、パタンと本が落ちた。なんだか、唐突にうろたえた顔で、川村はきゅっと、自分の肩を抱いた。
(大げさな)
 夏はまだ、始まったばかりだけれど、どちらかというと暑い日だった。少しくらい濡れたところで、そんなに寒かないだろうよ、と、雄大は思い、それからすぐに、違うと気づいた。
 薄い夏用のワイシャツの生地が身体に張り付いて、雄大と同い年とは思えないほど細い上半身のラインが、あらわになる。事態がのみこめないままにずぶぬれでうつむいている、川村の耳が赤い。
(華奢なの、気にしてんのか)
 気づいたとたんに、ドキンと、心臓が鳴った。半端に隠そうとするから、余計に目が行く。川村の細い両腕では、覆いきれない腹から腰にかけては、雄大がつかんでひねれば簡単に折れてしまいそうに、細い。
(──やべ)
 勃った。
 自分の下半身の不可解な反応はともかく、こんなに困惑しているかわいそうな生き物をなんとかしてやらなければ、それよりも何よりも、先に水をかけた件について謝らなければ、とは、思った。
(いや、だけど)
 今もし川村が顔を上げて、雄大の身体的な異変に気づいたら、どうにも気まずい。軽く混乱していると、誰かが遠くから呼ぶ声がした。
「ユーダイ! 水やり!?」
 グラウンドでサッカーをしていた連中が戻ってきたのだと分かる。それに気づいた川村が発する、ほんのわずかな、狼狽の気配。
 ドクン、ドクン──と。
 濡れた川村のシルエットが視界に入るたびに、雄大の内側で血が騒ぐ。信じられない細さとはいえ、同性の身体に高揚する自分に、苛立ちと、恐怖に近いものさえ感じた。
(──くそ)
 衝動的に、雄大はもう一度ホースの先を川村に向けた。
「──伊東くん……?」
 川村に、おそるおそるそう呼ばれて、少し驚いた。雄大自身はそのときはまだ、自分がホースでざばざばと水をかけている相手の名前すら、はっきりとは知らなかった。
「うわ、何やってんの、ユーダイ?」
「川村、びしょ濡れでしょ!」
 後ろから、クラスメイトの声がかかる。半ばは笑って、半ばはヒいている。
 動いていなければ、何か言わなければ、自分の欲情を人に知られてしまうような気がした。濡れた川村を見て勃起したなんて、知られるのは困る。当の川村には、特に。
「お前さぁ!」
 ザァザァと、逃げもしない相手の頭上に雨を降らせながら、自分をこんな、抜き差しならない状況に落とし込んだ川村に、半ば本気で腹が立ってきた。
「なんで胸隠すわけ? バカじゃねぇの?」
 二人の近くまで来ていた同級生たちが、ゲラゲラ笑った。雄大の発言を、罪のない冗談ととらえた健全な笑いの中にまぎれて、ほんの幾筋か、悪意の欠片が流れて落ちた。
「マジで? 川村ちゃん、濡れちゃって恥ずかしいのォ?」
「透けたら困ンのかよ。ブラでもしてんじゃねぇの」
 しだいに、わずかずつ、イーストのように。子供らしい下世話な残酷さが、欠片だった悪意を、膨らませ、増長させた。
「ユーダイ、背中濡らせよ! ブラ線透けるか確認しようぜ!」
 誰が言ったのかも分からない言葉のままに、川村の薄い背に水をかけたとき、雄大は何かを間違えたのに気づいた。シャツの最初のボタンを掛け違えたときの、ほんのわずかな違和感のように。今かけ直せば、一つで済む。けれどこのまま先に進めば──いずれ裾に近づくほどに、どんどん布地は歪んで、たわんでゆく。
 文字通り、降って湧いた災難の中で、撃たれる前の小鹿のように、川村若葉は立ち尽くしていた。雄大がふりまわすホースの水を、とうとう一度も、よけようとしないまま。
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