ココロノコリ

□(2)
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 隣家の犬が、びくりと若葉を振り返る。その口元が、わん、と吠えた気がしたが、声は聞こえない。
(不思議だ)
 犬の声さえ聞こえない若葉の耳に、それでも世界の音が届く。風の吹きすぎる音、木々のざわめき。夜鳴く鳥の、ホウという声。足元をするりと過ぎた白いものが、若葉を振り返り、ミャオと鳴く。ほんのわずか挨拶めいたその高い声は、たしかに若葉の耳にも届く。
(──死んだ猫?)
 月が昇る。この世に存在しない猫が、この世に存在しない少年に、小さくなれなれしい挨拶を送る。
 それならば、僕に聞こえるのは死んだ者の音、と、若葉は思う。死んだ風が、死んだ木々を揺らす。死んだ鳥が、死んだ夜の底で唄う。既にこの世にないものの歌を。
 既にこの世にはないくせに、未だこの夜に留まろうとする。その風も、その木々も、その鳥も。若葉の掌に収まりそうな、ほんの小さなその猫にさえ。
 心残りが、あるのだと思う。
(それなら、きっと)
 若葉は知らず、足を速める。広い農道を途中で森側に逸れる。わずかずつ勾配の増す丘の道を、いつの間にか小走りに進んでいる。本のほかに友人もない若葉が、毎日のように行き来した道。
 上る先には図書館しかなく、街灯もまばらなこの坂の中腹、折り返しのカーブで、ひしゃげたガードレールに半ば腰かけるようにして、やはり、そこにいた。
「──伊東くん」
 昼間と同じ、夏の服装の上にライダースジャケットを羽織った伊東雄大が、顔を上げる。
「川村」
 驚いた様子もなく、伊東は若葉を見返す。死んだ猫の声のように、その伊東の声も、若葉のすでに存在しない鼓膜を震わせる。
「お前も、浮かばれねぇの?」
 伊東のキツい顔立ちが、あざけるような笑みを浮かべる。この顔を、幾度見上げただろう、と、若葉は思う。廊下で背後からバケツの水をかぶせられたとき。花壇のホースで、面白半分に狙い撃ちされたこともある。若葉の席の後ろの壁に牛乳のパックがぶちあたり、頭上で破裂したことも。
 そのたびに伊東は若葉の目をのぞきこんで、少しだけ笑った。
「水もしたたる、な」
 今その同じセリフを聞かされて、反射的に髪に手をやる。実体をともなわないのだろう若葉の頭髪は、もちろん、乾いている。
 顔を上げると、伊東は自分の足元を眺めていた。
「ユーレーって、濡れてるのかと思ってたよ、俺」
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