【更新中】ジェリィ・フィッシュ

□9
1ページ/1ページ

「──先生」
 続きを聞くのを恐れるように、重人の唇が須崎の言葉を止める。すがるように、覚えたての愛撫を繰り返そうと、ぎこちなく彼を求める幼い舌をほんの少し味わってから、引きはがすようにそれを離して、須崎は少年の瞳を、正面から見る。
「選べたのは、君じゃない。──だから」
 ああ、と、目を閉じた重人のため息は、悲しみではなく、安堵の匂いがした。
「君はお母さんを奪ったんじゃない。──奪われたんだ」
 君の父さんと、母さんが、二人して。君を愛する気持ちのあまりに。君の母親を殺してしまったんだ。
「それは君のせいじゃない」
「先生──先生」
 何度も、何度も、重人は肯く。肯かなければ、須崎の言葉がどこかへ消えてなくなるかのように。そうしてすがりつくか細い身体を、須崎は本当に救いたいと思う。
「生まれ直せ、重人。──俺が、君を」
 もう一度この世界に、送りなおしてあげるから。

 生まれ直せ、と、その人は言う。
 その人の指は長くて、綺麗で、爪の形が整っていて。触れるものの全てをまるで楽器のように見せる。その人が触れる先から、世界が価値のある物に変わる、だから。
 外されていくシャツのボタンも、その下にある自分の皮膚も、まるで今新しく発見された何かのように、新しく、美しい、と、重人は思う。この二年間で初めて、自分を何か価値のあるもののように思う。──その人の触れる、楽器のように。
「──あ……」
 見惚れているうちに、いつのまにか自分だけが子供のように素裸なのに気づいて、重人は微かに混乱する。これは、診断の続き? それとも、何か、愛を表す行為?
「先生──」
 その人の手が腰骨のあたりに触れて、まだ他人を知らない部分が勃ち上がる。頬が熱くなる。須崎が望んでいることが、こういうことでなかったら、どうしよう。
「──ん?」
 須崎の指先が、小さくその先端に触れて、ぴくんと重人の全身を揺らす。やっぱり、僕は、と、重人は思う。この人の楽器になるような気がする。
「僕……よく、わからなくて……」
「うん」
 肯いたきり、言葉では何も教える気がないらしい須崎の掌が、腹の上を静かに滑る。子供の腹痛をおさめるようなその仕草を眺めて、やっと重人は、もう自分の身体の中にどんな痛みもないことを知る。
 ──これは、まるで魔法だ。
 でも、だから、重人は更に深く見失う。この人はただ、僕を癒やそうとしているだけなのか、それともその中に、ほんの幾許かでも、須崎自身の欲望がひそんでいるのか。
 それを聞いてみたくて、正しい言葉を探すうちに、重人は気づく。須崎はそれを分からないと言ったのではないのだろうか、これが治療なのか、それとも他の何かなのか、須崎にも分からないのだと。君を治したいのか、ただ。
 ──抱きたいだけなのか。
「……どっち、でも……」
 もう、須崎には、何に対する応えなのか分かりはしないだろう、と思う。それでも、その身にまだ十六年分の汚れをしか負わない重人の誠実が、それを口にする。
「どっちでも、嬉しいよ、僕……」
 須崎には、少年の言葉の意味がやはり分からない。分からないけれど、分からないなりに、それが何かの了承なのだということは分かる。何かの許しなのだということは分かる。
 ──何の、と、小さく己に問うて、その危うさにひるみそうになる、須崎の視線を避けるために、少年は須崎の身体を抱え寄せる。
 直接触れる肌のあたたかさが、重人の内側に生命が戻りつつあることを須崎に伝える。そうして、少年が望んでいることを悟る、少年が許したことの意味を知る。
「──先生、も、服……脱いで……」
 生きているということは、どういうことなのか、と、少年は訊いているのだと思う。
 生きているということは、と、須崎は思う。なけなしの蓄えを、この身体を、燃やしてなくすまでの道のり。
「──重人」
 生き直せ、と告げることで、未だ火のつかぬ灯心だった重人の身体を、冷たいまま丸まっていたその幼い身体を、自分は死へ向かう燃焼の道へ送り出すのだ。
 せめて俺自身の熱を、生命の火を。その灯心に移してやろう。──重人。
 着衣を脱ぎ捨てる長く器用な指は、須崎自身ももう一台の楽器にしていくようだと、熱くなりはじめる全ての皮膚をもてあましながら、重人は、そう思う。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ