【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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 浅く、わずかに付けられた唇が離れたとき、重人は微かに驚いた、けれどどこか納得ずくの眼を向けた。須崎はその少年の怜悧さに、何故だか自分が傷ついたような気がした。
「先生」
 重人の、今は痛みに色の薄い唇が、今度は下から、すくうように須崎に触れた。腹の痛みにか、他の何かにか、重ねられた唇からも伝わるほど、震えている。反射的にわずかに唇を開いて、少年の戸惑いに気づく。互いの舌先を触れあわせることすら、自然の流れではかなわないほど、重人は幼い。
 微かに笑って、深入りする前にその無防備な若い身体を放す。
「大丈夫か?」
 何についてそう聞いたのか、自分でも良くわからない。何であったにせよ、重人は首を振った。
「先生──僕」
 声が震えているのは、痛みのせいばかりではない気が、どうしても須崎にはする。重人は、きっと、理解している。
 彼をその苦痛から救い出す、たった一つの方法を、おそらく須崎は知っていること、もしくは知っている気がしていること。
「怖いんだ。……だんだん酷くなる。この次は、もう、耐えられないかもしれない」
 そして須崎がそれをためらうことも、ためらうだけの理由があることも、少年は知っている。知っていて、おびえていて、それでもこうして──助けて、と、彼にすがる。
「重人──俺は」
 腕の中で震える、無抵抗の患者。子供とはいえ、須崎と同じ性を持つものとは思えないほど、華奢で、儚い身体。
「俺には、わからない。君を、治したいのか──抱きたいだけなのか」
 きゅ、と、須崎の腕をつかんでいた重人の手に、力がこもる。言葉に出した以上、それは選択だ。この世に生まれ出た初めから、選択の機会を奪われ続けてきたこの子供に──よりによって何を、俺は選ばせようというのだろう。
「先生……」
 まだかすかにためらいを含んで、重人はささやく。
「僕……本当は、ずっと」
「──うん」
「こんなに痛いくらいなら、痛いままで生きてくくらいなら、死んだほうがマシなんじゃないかって、思ってた」
 たぶんそれは、知っていたから、須崎は肯く。俺は知っていた。もし十六年前に、重人自身が選べたのなら、少年が出しただろう答え。──けれど。
「だけど、さっき、本当に──本当に、本当に、痛くなって。今までで一番、ほんとに死んじゃいそうに痛くなって」
 須崎はそっと、気づかうように重人の腹に掌を当てる。そうすることで、少しでもその痛みを分けあえるかのように。
「……そしたら、やっぱり、嫌で」
 ふっと、初めて少年から生き物の気配がして、須崎は顔を上げた。重人は自分の言葉に傷ついたように、黒い瞳いっぱいに涙をためている。
「母さん、には、悪いけど──すごく、すごく、悪いと思うんだけど。僕は、生きたかった。こんなに、痛くて。きっと、母さんは、もっとずっと痛くて──だけど、僕は」
「……重人」
「先生……僕は、産んで欲しかった。死んじゃうのは……嫌だと、思っ……」
 少年の解答を──誰が何と言っても、重人自身が否定しても、どうしようもないその完全で完璧な正解を。最後まで言わせる余裕もなく、須崎は重人を抱きしめた。
 ──今、望んでこの世に生まれようとする、小さな、頼りない生命。
「いいんだ。それでいいんだ、重人」
「──でも」
 重人がささやく“でも”の意味を、須崎は知っている。その問いに対して、君が死んでもお母さんは返ってこないんだとか、陳腐な言葉を返すほど、須崎自身に余裕もなかった。
「君が生まれて来るために、お母さんが死ぬ必要なんかなかったんだ」
「──え?」
 混乱する瞳を見返したまま、目を閉じずにもう一度重人に口づけをする。今度は唇を開かせて、須崎自身のキスを教えてやる。
「そんなに綺麗でいなくていいんだよ、重人。時々は理不尽に人を責めていい。人が無理なら、神さまでもいい。世界でもいい。自分に責任がない時には、自分にどうしようもないことについては、とにかく何か他のもののせいにして、人間は生きていくんだよ、重人」
 それは悲しいことだけれど。自分は今、天使を一羽つかまえて地上に引きずり降ろし、人の子にして世界に放つ。
「そろそろ気づけ。君は酷いことをされたんだ。君がお母さんを殺したんじゃない。君にはそれを選べたか? 選べない選択に責任はないんだ。君がお父さんからお母さんを奪ったんじゃない。選べたかもしれない人は、選んだ人は、他にいるはずだ」

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