【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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 ──これは、生む痛み、生まれる痛み、それとも生まれることを拒む者の?
 耐えられないわけがない。世界中の五割の人間が、耐えるように生まれつく痛みなら。その五割に入らぬというだけの理由で、重人にはその痛みが耐えられないなんて理不尽だと思う。少なくとも、彼女は耐えた。この痛みにも、これ以上の痛みにも。彼女は──
 涙がにじんだ。この痛みは何も産まない。彼女は死ぬことで彼を産んだけれど、この痛みが彼を殺しても、彼からは何も産まれない。ただそこには、この痛みの、そして何もかもの終焉が待っているだけだった。
「嫌だ……嫌──」
 目の前のテーブルの足を、拳でガンガン殴った。彼の白い手は赤く腫れあがったけれど、今以上に痛みの増すことはなかった。ただその衝撃で、揺れたテーブルから何か硬いものが降ってきた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ」
 この痛みを止められるかもしれない──死をのぞけば、たった一つの可能性。頭の上に降ってきた携帯を、生命のように握りしめる。
「嫌なんだ」
 そのささやきを届けるべき番号を見つけだすまでの、ほんの少しの道のり。そこにたどりつくまでに、生きることを放棄してしまわないかどうか──重人には、自信がなかった。
「や……」
 ただ、何に対してかわからないまま、嫌だ、と、強く思った。初めて、彼を生み出した世界に対して、重人は言う。僕は嫌だ、と。

 受付から診療室へ回されてきた電話は、須崎が出た頃には声を失っていた。ただほんの少しの呼吸音のようなものが、それとも押し殺された嗚咽のようなものが聞こえた。それで十分だった。
「すぐ行く」
 須崎の発した言葉もその一言だけ、次の瞬間には、受話器を置くと同時に白衣のボタンを二つ外していた。
「戸田君」
 診療室のドアを出て駆け出しながら、廊下をやってくる看護士に声をかける。
「急患だ。午後のカウンセリングの予約、全部キャンセルしてくれ」
「は?」
「急患!!」
 車にすべり込みながら、自分の迅速すぎる対応に、俺はこれを待っていたのかもしれない、と思う。この電話があることを知っていて、そして待っていた。十五日。高中重人。そしてその苦痛。
 救ってやるためか、殺してしまうためか、愛してやるためにか。傷つけ、踏みにじるためにか。どれでもあり、どれでもない。ただ確かなのは、今重人が彼を必要としている以上に、いつの間にか須崎自身が、重人を必要としていること。

 須崎が、チャイムも鳴らさず高中の家に駆け込んだとき、重人は電話を握ったまま天井を見つめていた。もう世界中が苦しんではいなかった。痛むのはこれまで通り、彼の体の奥の方だけだった。
 それでも動けないくらいには十分な痛みだったけれど、逆に言えばじっとしていられる程度の痛みでもあった。
「重人」
 須崎は重人を抱え起こした。重人は奇跡を見るように彼を見る。
「先生──本当に来たの」
 当たり前だ、と言おうとして、ためらって、須崎は重人に肩をかし、ソファの上までそっと移動させた。
「──大丈夫か」
「先生の、声、聞いたら──少し落ち着いて」
 重人は、握っていた携帯電話から、一本一本引きはがすように指を離した。毛足の長いカーペットの上に、電話が転がる。重人も、須崎も、それを気にはしなかった。
「平気になった。──痛いんだけど、もう、怖くない」
「──そうか」
 須崎は、自分でも意外なほど心から、安堵のため息をついた。予測する、ということと、予測した事態に平気でいるということは、全く別のことなのだと思う。
 ここに須崎を駆けつけさせた欲求が何であれ、痛みに取り巻かれて転がっている重人を見た瞬間に吹き飛んだ。
「……良かった」
 思わず重人の隣りにへたりこむと、少年は痛みの中から微かに笑って、須崎の肩に額をつけた。
「僕も。良かった、来てくれて」
 長いこと学んできた、書物や臨床の知識はすべてどこかへ飛んで行った。ただ目の前の患者への愛しさだけが、須崎を満たす。誰かを本気で癒したいと思うには、それで十分だと思う。
「来るさ」
「──うん」
 微笑む重人の呼吸が、まだ少し荒いのに気づく。痛みにうめきそうなのを、必死でこらえている。
 だから、その負担を少しでも軽くするために、須崎は自分にできる最善のことをした。
「せんせ……?」
 痛みが口うつしで移れば良いのにと、須崎は思う。

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