【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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「君のは、どちらかというと、陣痛だ。もちろん──想像的な」
「陣痛──って……」
 重人は、理解しないまま繰り返す。
「赤ちゃん、産むときの……?」
「そう。──そうとも言い切れない。きっと君の中では、月経と出産の意識がごっちゃになってる。子どもを産むときの痛みと、産まないときの痛み」
「産むときと──産まないとき」
 自分に言い聞かせるようなその呟きの、それまでと違った声の響き方に、須崎は改めて、自分が何げなく出した言葉の意味に気づく。それは、重人が十六年前に与えられなかった選択。生まれ出ること、それとも、生まれ出ないこと。
 君は生まれて良かったんだ、と、そう言うことはたやすい。それでも須崎がそれを言えば、もう一度重人から選択の機会を奪うことになる。
「先生──」
「うん」
「僕、治る?」
 それとも、壊れてしまう?
 須崎は仕事を離れた率直さで答える。
「わからない」
 重人が初めて、信頼を含んだ眼差しで彼を見た。重人が求めていた答えはそれだったのだと気づく。
 自分が正しいカードを引き当てたことに当惑し、微かに、後悔もした。この子供を、絶対に裏切らないという自信は持てなかった。それでも。
「ひどく痛み出したら──痛み出しそうになったら、ここへおいで」
 須崎は、医者であろうと思った。医者でありたいと思った。
「ここなら、大声出しても──のたうちまわっても、大丈夫だから」
 二年も耐えてきた痛みを、今になって訴え始めたのは、高中に隠せなくなることを恐れたからだろうと思う。他の誰に知られても、父親にだけは。
 重人は、父親を失うことを何より懼れている。高中の最愛の妻を殺して生まれてきた自分を恐れている。
 どの視点から見てもそれは、何と消極的な三角関係だろう。
「須崎先生……治るとか、大丈夫とか、全然言わないね。普通お医者さんが言いそうなこと」
 他の患者には、うんざりするほど言っている。軽い症状です、心配いらない、体の方が健康に戻れば、心も丈夫になりますから、必ず治ります、大丈夫。毎日毎日、繰り返している。
「──そうかい」
「不思議だな、何だか」
「ん?」
「僕、その方が、安心するみたいで」
 ──安心。
「そう」
 それが俺の、仕事だからな。
「気をつけて、帰りなさい」
 重人はまるで、悪いところなど何もないような笑顔で肯く。
「はい。ありがとう──先生」

 どうして毎月、十五日という日があるのだろう、と重人は思う。
 その四月にも、その日はやってきた。痛むのはわかっていた。ただ、今回は違うと──越えられると、思おうとした。痛いわけではなく、痛むように思い込んでいるだけなのだから。それは彼の母の痛みで、彼の痛みではないのだから。
 彼には何も産むことはできない。産む痛みも、必要ない。
 幻想の痛み──でも幻想というものは、人を安らげるためにあるものではないの? この痛みが彼に与える安らぎがあるというのなら、それはいったい、どんな種類の?
 ──この痛みが。
「いた……」
 進級したての学校に、その日は行くのをためらった。いつものように朝食を採り、制服に着替え、早くに家を出る父親を見送り。その後は、一人きりの広いリビングで、ソファに丸まって膝を抱えた。
 膝を抱えて、丸くなって。もうすっかりなじんだその痛みが訪れるのを待っていた。須崎のところへ行こうかとも思った。けれど──それが本当に幻なら。本当には少しも痛んでなどいないのなら。
 彼には何も恐れるものなどないはずだった。恐れなくていいはずだった。
「いた──痛い」
 約束通り、何と忠実な友人。消えてなくなるはずなどなかった
「痛い──父さん、父さん……母さん……」
 いつのまにかソファから転がり落ちていた。厚い絨毯の上をのたうちまわっているうちに、ガラスのテーブルに強く頭をぶつけた。地球が逆回転を始める。目の前のあらゆる光彩に、ほんの少しずつ闇の色が混じる。
 暗闇にいるような錯覚。下腹を中心に体中のあらゆる部位が痛く、そして彼の体でない部分まで、彼の延長上の何もかもが痛んだ。世界中がもがいている。

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