【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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 それは、日常の言葉に置き換えれば、ただ、そう、単純に。ものすごく、好みのタイプだと、いうだけのことではないのか。
 気づいてしまうと、何だか気がぬける。
「先生……?」
 沈黙の長さにたえかねたように重人が声をかけた。須崎は職業柄の笑顔を返す。おそらく、自分の感じ方は間違っている。そして今なら、まだ、それを抑えられる。とにかく今は、この子供を、いいや患者を、永遠に訪れ続ける月に一度の出産の悪夢から、救い出すことだけを考えなければならない。
「君の母さんは、どんな人だったの?」
 一瞬のよどみもなく、重人は答える。
「いい母でした。綺麗で、優しい人でした」
「違うね」
 同じくらい即座に、須崎はそれを否定する。
「君は彼女を知らない。彼女が綺麗だったかどうかも、彼女が優しかったかどうかも知らない。実質的にはほんの一日も、彼女は君の母親だったことはないんだ」
「……だって」
「それは君の記憶じゃない。そうだろう?」
 ぱっと、立ち上がりかける少年の手首を、乱暴にならぬ程度の強さで押さえて、診療台に戻す。少年が安全だと思うだろう距離の、ほんの少し内側に入る。怯えているくせにまっすぐにこちらを見返す、小動物のような黒い瞳を、斜め上から見据える。
「それは、誰の記憶?」
 性急すぎる、と、自分の行動を分析し評価する自分がいる。未だどんな信頼関係も築けていない状況でこれでは、重人は壊れてしまうかもしれない。
 けれどいつかは壊れる子供なのだとしたら──と、それは、今日見つけたばかりの須崎の俗悪な部分が言う。いつか壊れる子供なら、それが今でも、どれほどの違いがある?
「──誰にとって、彼女は、いい母で、綺麗で優しい、完璧な女性だったんだろう?」
 誘導尋問だ。どう考えてもたった一つしか浮かばない答えを、教えてやるのではなく、自分の口で言わせようとする。重人の、震える、彼自身の唇から。
「それは、誰の記憶だ、重人?」
 瞬時色彩を失いかけた、目の前の重人の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちて、須崎をやけに安堵させる。少年は子供のようにわっと声をあげて、須崎の白衣の肩に顔を埋めた。
 良かった──重人に見すかされない程度に浅く、息を吐く。少なくとも、この子はまだ泣ける。須崎の中の、医者でない部分の昂りのようなものも、すっと引いていった。
 重人の小さな頭を、やわらかく掌で叩く。
「……誰の、記憶?」
 重人は、しゃくりあげながらささやく。
「父さんの……父さん、の」
 そう。高中の。
 ゆっくりと、頼りなく細い身体を離すと、少年は自分の言葉に驚いたように、ぴたりと涙を止めて、須崎を見上げた。
「──父さんの?」
 それには答えないことにした。
「お母さんのこと、知ったのはいつ?」
「母さんのことって……」
「君の母さんが、君を産んだ時に亡くなったんだということ」
 重人は唇をかむ。
「いつ?」
「──十五の、とき」
 婉曲表現だな。須崎は小さく微笑んだ。症状が出始めたのと同じ、二年前、とは言わない。
「君、今いくつだっけ」
「十六歳」
 須崎は肯く。
「この夏で、十七だね」
 言外に──それで、二年だ。重人は目をそらした。
「君のな──腹の痛いの、あれなぁ」
「…………はい」
 伏せられた睫毛が震えるのが、とても──エロティックだ、と思いそうになる自分の思考を修正する。とても綺麗だ、もしくは、とても、痛々しい。
「生理痛みたいだよな」
 青ざめていた少年の頬が、ぱっと赤くなる。
「……やっぱり。でも、僕──」
 これくらいのことでしどろもどろになるあたり、十六らしいと言えばいいのか、それとも十六らしからぬと言えばいいのか。
「生理痛みたいだけど、違うな」
「────違うの?」
 意外な言葉に、ほとんど無防備な子供らしい表情をさらして、重人は伏せていた瞳を上げる。それからまた赤くなって、慌てたように付け加える。
「あの、僕は男だから、違うの当たり前なんだけど、でも」
 須崎は笑わず、大真面目に肯いた。
「君の言いたいことはわかる。だけどそれは君のこころの中でも、生理痛とは少し違う」
 どう説明したら良いだろう。
 贖罪──という言葉が浮かんだが、その語彙を十六の子供が知っているかどうかは心もとなかった。

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