【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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 独身の須崎には、良くわからない。患者と、赤ん坊と。妻と、我が子と。自分の生命と──……そんな選択の意味も、迷いも苦悩も。それぞれの立場に立たされた時、自分が何を選択するか想像もつかなかったし、結論が出ることだとも思えなかった。
 ただ一つ、確かなのは──
「須崎君、あの子を知ってるの?」
 須崎は、一瞬だけためらってから肯いた。
「一度会ったことがあるだけですが──随分白くて、細いから、気になって」
「そう……私は、あれっきり。何だかね」
 何だか怖くて、と、静子は言ったのかもしれない。飲み込まれた言葉の、先の方で。
 須崎は上着をつかんで立ち上がった。
「どうも、お邪魔しました。なんか、悪いこと聞いちゃったみたいで」
「いいのよ」
 自分の返答の理由を探るように、少し首を傾げて、静子は言う。
「──私は、医者だから」
 医者だから。
 この人は誠実だ、と須崎は思う。医者は神ではない。聖職者でもない。成功と失敗の間を、行きつ戻りつするだけの職人だ。職人──それとも商人か。生と死とを、売り買いする。
「静子先生──もう一つ」
「なぁに」
「あの子……重人君。生まれたの、いつか覚えてますか」
「誕生日のこと?」
 静子はカルテも出さずにあっさりと答えた。
「すごく暑い日でね。終戦記念日だったわ」
 終戦記念日。八月十五日。
 須崎は丁寧に一礼して、昼休みの産婦人科診療室を後にした。待ち合いには既に午後の診療を待つ女性たちが幾人か座っている。生命をたたえた、ゆるやかな膨らみ。彼の医院にはない、古い病院に染み込んだ薬品の匂いがする。生と死の匂い。
 一つ、確かなのは。
 高中重人には、与えられなかったということだ。母と、自分と。その、選択の機会は。

 次に重人が来たのは四月の初めだった。春休みが終われば高校二年生になるはずの重人は、須崎がその年頃だった頃よりずっと細く、頼りなく、そのくせどこか大人びて見えた。
 本当のことを、言おうと思う。
 癌だって告知する時代だ。この子には理性も落ち着きもある。考える力を持っている。真実を正面から受け止めて、それと闘うほうがいい。第一──第一、この子は本当は、もうそれに気づいている。
「──君、夏生まれだそうだね」
「え?」
 重人は伏せていた顔を上げた。小ぶりなその顔には少し大きすぎる瞳が、子犬のように須崎を見上げた。この間の夜よりは、ずいぶんと顔色も良いように見える。
「意外な気がしてね。君、あんまり、夏っぽくないから」
「そうですか」
 笑う顔は、年相応にみずみずしい。須崎は少年と視線を合わせるのを避けて、制服のシャツの襟元の、柔らかい皺を見つめた。
「八月十五日」
「はい」
「君のお母さんの、命日にもなるわけだな」
 怒るか、泣き出すか。いずれにせよ何かが起こるのを、無意識に息を止めて待つ。
 重人は微かに驚いた顔をして、ただあいまいに微笑むだけだ。
「ええ、そうなんです」
 これは、何の抑圧だろう。
 重人自身が、そんなことには傷つかないと思い込んでいる、それとも、思い込もうとしている。
 なんて白い頬だろう。細い手首。苛々するほどの、虐げたくなるような、繊細さ。
 この子は死んで行こうとしている、と、須崎には思える。彼を生み出すことに失敗した母の痛み。いや、彼を生み出すことには成功し、その後自分の生命を保つことには失敗した、母の。
 月経を模倣する周期で彼を襲うその痛みは、彼の心の中にいる彼の母親が、彼自身を生み出そうとする、魂の陣痛だ。必ず失敗する、失敗するための──彼が殺した母の再体験。
 重人自身が、いずれ彼を殺す。
 放っておけない気がした。放っておいてはいけない気がした。須崎は自分がそう思うことに、わずかに戸惑う。これは共依存への危険信号だ。
 須崎は自分を安定した人間だと思っている。こんな職業に就きながら、自分の中に病の影を見たことがない。──重人、以前には。
 自分の感じていることに、自覚的にならなければ、と思う。何が目の前の少年を殺すとしても、自分は許せない気がする。重人自身であっても、それを許せない気がする。もしも何かがこの少年を殺すなら、それは須崎自身でなければならない気がした。
 それは、須崎の職業とも、重人の症状とも、本当はあまり関係がない。ただ、目の前の高中重人が、あまりにも須崎の幻想に近いというだけだ。須崎の抱く、性の幻想に。

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