【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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「親子仲は悪くないと思うんだがなぁ」
 牛丼から顔を上げて、内藤は首をかしげた。
「実際あの年頃にしては、驚くほど父親になついてるよ。高中君にしても、一人息子だけに可愛がっているようだし。知られたくないというのは、心配をかけたくないからじゃないだろうかね」
 そうじゃない、と須崎は思うが、口に出しはしなかった。あの、すくんだような様子──おそらくあの症状の原因は、重人と高中の関係にあるような気がした。
 正直なところ夕べは、虐待の可能性すら頭をかすめた。とはいえ、内藤が精密検査をしたのなら、その徴候を見逃すはずがない。それが暴力的なものであれ、性的なものであれ。その辺りの勘と道義心については、この大らかなくせに強引な学部生時代の恩師を、須崎は信頼してもいる。
「母親がいないからなあ。あの子も小さい頃から知ってるが、高中君にずいぶん甘えてたもんだ」
「──母親、いないんですか」
 内藤は呑気に茶などすする。
「あの子が生まれた時にね。もともと弱い人だったんだが」
 須崎はため息をつく。そんな大切なことを、どうして最初に言わないのだろう。内藤は内科医としての腕は確かだが、どう転んでも須崎の仕事は代われそうもない。むろん本人も、医大内科医のエリートコースを降りて、わざわざカウンセリングの専門医になりたいなどとは望まないだろうが。
「医大(ここ)で生まれたんですか──彼は」
「うん、そうだ。静子さんが担当だったんじゃないかな。彼女に聞いてみるといい」
「静子先生が──」
 須崎は、自分が学部の学生だった頃既にベテランの産科医だったその女性の、小柄な白衣姿を思い浮かべた。

「重人」
 穏やかな声に、重人はびくんと顔を上げた。脱いだ上着を掛けようとしている父がこちらに背中を向けていることに、幾分ほっとする。
「──なに?」
「お前、夕べどこかへ出かけたのか?」
「え──」
 テーブルの下の両手が、わずかに震える。医大の中を歩いていた時に、誰かに見られたのだろうか。もうずいぶん長いこと相談に乗ってくれている内藤が今更父に話すはずはない。でも、あの若いカウンセリング医は、まだ、どんな人間か、よくわからない。
「電話したんだが、出なかったからな」
「あ──夜中?」
「二時頃かな。いや、三時か」
「……寝てた。ごめん、気づかなくて」
「いや、いいんだ。そんな夜中に電話する方が非常識だな。悪い親父だ」
「──何か、用だったの?」
「いや。たった一人の家族の様子が、何となく気になってな」
 息子の髪をくしゃっと撫でて、高中は笑った。
「じゃあ父さん、少し寝るから。遅れるなよ、学校」
「ん」
 微笑んで見せて、ダイニングを出て行くたった一人の家族の背を見送る。そしてテーブルの上の、父のカップの隣りで小さく手を振る、本当ならもう一人いたはずの家族を、手にとってみる。高中と並んで幸せそうに笑うその女性は、不思議なほど重人に似ていた。
「──母さん」
 母さん。
 まだ微かに、下腹の奥のほうが痛むような気がした。

「重人ちゃん?」
 突然訪れて昼休みの邪魔をした須崎に嫌な顔もせず、木戸静子は血色のいい頬をにこにこさせた。
「高中さんとこの──覚えてるわよ、小さい赤ちゃんでね」
「あの──」
 願わくは非難と取られませんように、と思いながら、須崎はおずおずと口にする。
「母親の方は、亡くなられたんだそうですね……?」
 静子は悲しげに眉を寄せたが、気を悪くした様子は見せず、須崎をほっとさせる。
「産むのはムリだって、私も高中さんも止めたのよ。でも、どうしても産みたいって、本人の希望で」
 軽く唇をかみ、当時を思い出すような間のあとで、小さく肯いて続ける。
「私はわかっていたのよね、あの時。母親か、子供か、どちらかは諦めるしかないって……高中さんも、涼子さんもわかっていたんだと思う。わかっていて、それを望んだのだと──だけど、そんな納得のしかたでね、人間(ひと)一人殺して良かったのかと……私がしたのはそういうことなのじゃないかって……今でも、時々思うことがある」

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