【更新中】ジェリィ・フィッシュ

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 何かに揺らされたような気がして、眠りから覚めた。揺すっていたのは電話の音だった。
 暗闇に目をこらしても、時計の文字は見えない。とにかく深夜であることは確かだ。無視してしまおうと布団を被り直して、開業したての自分の立場を思い出す。仕事の話なら、捨てておくわけにもいかない──急患という可能性は、まずないが。彼は精神科の医者だから。
 俺のところに連絡が来る急患ならば、必要なのは医者ではなく警官だ。それとも外科医か。口に出してしまえば誰も笑えない冗談と、自分で点けた明かりの眩しさに目を細める。
「──須崎ですが」
「内藤だ。これからそっちに患者が行く」
「は?」
「もう向かってる。さっきタクシーで送り出したところだ」
 寝起きの意識が、急速にはっきりしてくる。
「待って下さい、内藤先生、うちは夜間は──」
「診療しないんだろ。わかってる。だから君に頼むんだ」
「むちゃ言わんで下さい。何の患者か知りませんが、看護士だって帰してるんですよ」
「心配せんでいい、手術をしろなんて言いやせん。正しく、君の患者だ」
 ──君の。精神科(こころ)の、という意味か。
「先生、今どこですか。医大におられるのなら、そちらにも専門の──」
 被せるように答えが返ってくる。
「患者は、高中君のご子息だ」
 須崎は出かけた声をのみこんで、思わず声を低める。
「高中……先生の……?」
「医大の人間に知られるのはまずいかと思ってな。君のところなら」
「しかし」
「高中君に知られるのが嫌だと言うんだ、仕方あるまい。医大(うち)で治療を受ければ、必ず彼の耳に入る。──詳しいことは本人に聞いてくれ。どうも私にも良くわからんのだ。ただ、確かなのは」
 当惑を表すように、内藤は言葉を切った。
「彼は内科(わたし)の患者ではなく、君の患者だということだ。それからそれを、父親に知られるくらいなら死んだほうがマシだと言ってる」
「内藤せ──」
「とにかく頼む。今夜は病院にいるから、何かあったら直通の方で連絡してくれ」
 逃げるように、電話は切れた。須崎がまだ受話器を握りしめている内に、外で車のドアの閉まる音がした。

 高中重人は、父親に似ていない。
 青ざめた白い頬を見て、須崎はそんなことを思った。顔色が悪く、少しふらついている他には、どこにもおかしな点はない。うつむきがちに伏せられた瞳も、視線の先は安定している。彼が自分の患者だとは、やはり思えなかった。
「──まあ、座って」
 慌てて羽織った白衣を整えながら、職業用の笑顔を作る。少年はほっとしたように微笑んで、診療台に浅く腰かけた。
「すみません、こんな……夜中に」
 ためらいながら出した言葉も、須崎の予想よりしっかりしている。声も震えていない。
「そんなに急いでるわけじゃなかったんです。でも──昼間だと」
 父親に知られたくないんだものな、と、須崎は心の中で肯く。おそらく今夜、高中は当直で医大に詰めているのだろう。
「時間のことは気にしないで。申し訳ないんだけど、内藤先生の説明ではよく分からなくてね。最初から話してもらわなきゃならないんだが」
 須崎は少年を患者扱いすることを、既に半分放棄している。この子は、精神を病んでいるようには見えない。失恋か、進路の悩みでも聞くような気でいればいい、十六か、七か──難しい時期なのは確かだが、誰でも通る道だ。
「お腹が、痛いんです」
「──は?」
 思わず聞き返すと、少年は困ったような顔をした。
「あの……お腹が」
 須崎は、デスクの前の椅子を引き寄せて座った。三秒ほど少年の言葉を反芻してから、
「参ったな。そういうことなら、内科じゃないのかな。内藤先生、何だってわざわざうちに──第一、君のお父さんは」
 内科の主任医師だ。
 びくん、と、少年の肩が揺れた。それと分からない程度に、須崎の頬が緊張する。“父親”は禁句だ。重人の白い顔から、落ち着きが剥がれて落ちる。
「どんな風に痛いの? 内藤先生には言った?」
 こくんと一つ肯いて、少年はすがるように須崎を見上げる。
「悪い所はないんです。ないんだって──精密検査もしてもらって……」
「それは、誰が?」
「内藤先生。……先月、父さんが学会で留守だったから……」
「先月?」
 できるだけ、相手を驚かさないように聞き返す。少しずつ、分かりかけてきた。この子の痛みは、身体が起こすものではないのだ。だからこれは、内藤のではなく、彼の患者(クランケ)。

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