【更新中】ジェリィ・フィッシュ
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八月中旬の霊園というのは、ずいぶんと人の多いところだ。父と並んで石段を登りながら、重人は観光地にでもいるような錯覚を覚える。
この坂を登りきった高みに、その人が眠っている。自分に似た白い頬をした人、父の愛した人──この世でほんの二十分ほどを、自分の母として過ごした女性。
「すごい人出だな」
入れ違いに降りてくる家族連れを石段の脇にずれてやりすごして、高中は苦笑する。
「盆時期でなければガランとしてるんだが。命日はずらすというわけにもいかないからな」
父がそれを、単に事実として述べたのか、軽い冗談のつもりだったのかはかりかねて、重人は曖昧に肯く。命日は、ずらせない。──誕生日もね、という言葉は、口からだそうとも思わずに思考の表面だけをすべって消える。
そういえば自分はこの人の口から、誕生日おめでとうという言葉を聞いたことがない。母の死について聞かされる前から、ほんの幼い子供の頃から、それはずっとそうだった。ずっとそうだったから、改めてそれについて考えてみることもなかった。
──言うはずがない。今日という日は、決してめでたくなんかないんだから。
「重人?」
須崎に教えられるまで、自分の中に存在することすら認めずにいた、仄かな黒さを、重人は意識する。
父さんは、僕よりも母さんが生きていてくれれば良かったと思ってる。
「大丈夫か。やっぱり、家で留守番してたほうが良かったんじゃないか?」
高中は、息子は神経性の腹痛で非公式のカウンセリングを受けていたのだと理解している。医大の診療を避けたのは、医学部を志望する重人の将来を内藤が気づかってくれたのだと思うと、重人は父に言った。
嘘じゃない。面倒な部分を避けて濾過した事実を話しただけ。
「──大丈夫」
重人はダークスーツに身を固めた、いかにも成功者然として見える父親を見上げて、かすかに微笑む。もっとひどい嘘を、僕は簡単についた。こうして、笑いたくないときに笑うくらいのことは。──嘘じゃない。
☮
一昨日、これで須崎の声を聞くのは最後かもしれないと思いながら電話を切ったあと、重人は膝を抱えて、見も知らぬ誰かの名を呟いてみた。
「──ミトミ……ミトミカズアキ」
声に出してみても、まったく像の浮かばないその名前は、治療でなく、同情でなく、本当の意味で須崎に愛された人のものだ。
須崎の古い醜聞として父の口から漏れたその名前は、重人の胸の中に、生まれて初めての淡い嫉妬と、須崎の立場への深刻な危惧をじわりと植えつけた。
父親にはそれ以上の詳細を聞けず、といって須崎本人に直接尋ねる勇気も出せずに、結局重人は、内藤に不器用なさぐりを入れた。
「──三富……」
何か、苦いものでも噛みしめるように、内藤はその名を口にした。
「高中から聞いたのか、その名前?」
重人は肯き、内藤になら自分の単純な疑問をぶつけてもいいように思う。
「──須崎先生の、昔の恋人?」
「…………」
「子供だったって。だから、須崎先生は医大にいられなくなったんだって、聞いた」
あれはそういう男なんだ、と、高中は言った。けれど、重人には、父の言葉が指す意味合いを、本当には理解できなかった。
「それ、すごく悪いことなの?」
重人の率直な質問に、内藤は少しひるんだように見えた。ほんの短い躊躇のあとで、聞きとりづらいほど低い声で答える。
「当時の状況について訊いているんだったら、私個人としては、須崎には責められるべきところはないと思うよ。いや、まったくないとは言えないかもしれんが、とにかく、あの件で一番悪いのは須崎ではなかったと思う。──だけどな、重人」
続く内藤の言葉に、重人はきゅうっと心臓の凍る音を聞いた。
「今現在、君がどうしてそれを訊くのか、というのは──とても怖い」
内気ながら怜悧な少年は、内藤が言葉にしなかった含みまで、はっきりと把握する。
昔のことは問題ではない、と、内藤は言うのだ。ただ、もしも現在の須崎が、患者である重人の身体に触れているとしたら、と、内藤は言うのだ。それはとても、怖いことだと。
「──内藤先生」
だから、父親に告げたのと同じことを、重人はもう一度口にする。自分たちの間には、医者と患者のそれ以外には、どんな関係も存在しないと。
繰り返すうちに、少しずつそれが本当のことのように思えてきて、不安になる。
──僕が治ったと知っても、あの人は会いたいと言ってくれるだろうか。
祈るように、重人は須崎に電話をかける。もう一度、あれは治療ではなかったと言って欲しかった。
☮
そうか、良かったな、重人。
いつも通りの優しい声音の端に、ほんの少しの安堵を浮かばせて、その人は言った。
君が治ったのなら、本当に良かった。もう、医者(おれ)のことは、忘れて暮らせるようになるといいな、と。