家庭ψ園

□(4)
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「俺、物理の教師だったんですよ」
「うん」
 今日もまた、メロンソーダの氷をかき回しながら、授業中の杷は上の空だ。少し前から、杷のメロンソーダにはチェリーが乗せられるようになった。果物すら固形のままでは口にしないのだから、これは完全なる甘やかしだ。
「受験先がH大一本なら、もう、理数系で教えられることは、ほとんどないんですが」
「うん」
「英語も歴史も、相当変化球がこない限り大丈夫でしょう? 強いて言えば、古文がアレですが」
 これは俺にも、教えるだけの知識がない。
「いいじゃない、別に。っていうかさ。こんなに真面目にお勉強したの、先生くらいだよ」
「――は?」
「みんなお金もらうのに来てたんだもん。教えなくて良かったら、そのほうが楽だし」
 それは、そうなのだが。
「――そういうわけには、いきません」
 これで、授業を放棄してしまったら。
(……ただの男娼じゃないか)
「国公立は、受験されないんですか。会社を継がれるなら、国立のほうが、なにかと」
 便利、と言いかけて、なんだかつまらないことを言っているな俺は、と思う。
「うん。でも」
 社長さんの出たとこ行かせたいんだって。と、大した興味もなさそうに、杷は言う。
「社長さん、というのは、つまり」
 CEO?
「うん。おとーさん」
「……は」
 父親は死んじゃった、と、可愛らしい感じで言わなかったか? カラカラリン、と涼やかな音をたてて、揺らしていたグラスから、杷は目を上げ、
「出水(いずみ)は母さんの名字で、だからなんか会社とか、そういうのも、母さんのほうのアレなんだ。オレの父親は婿養子で、けどオレが生まれる前に死んでて、社長さんはあとから来た二代目の婿養子で、そのあとわりとすぐ母さん死んじゃって。完全に他人同士のオレと社長さんだけ、ぽつんと残されてるわけ」
 血統書つきの庶民としては、話が深すぎて、すぐには飲み込めない。結果。
「――社長さん、って、呼んでるの?」
 我ながら、まことにどうでも良いことを聞いたが。杷は何故だか恥ずかしそうに、ううん、と、首を振った。
「ひろさん、て、呼んでた」
 ドキン、と、変なタイミングで、心臓が鳴った。ひろさん、と、口にするときの杷が、いつにもまして可愛らしく、見えたからだ。
「呼んでた、って。今は」
「しばらく会ってない。オレ、こんなだから」
 ――〈オレは、可愛くないでしょ〉……。
(……そうか。あれは)
 可愛いと、思ってほしい人がいるから。
「……じゃあ、とりあえず、志望校は、現状維持ですね」
「うん」
 その人は、杷にとっては、父親じゃないんだ、と。俺は思った。未だ十六の杷の、同性愛傾向と、性に対する奇妙な慣れと、わずかな倒錯と。いろんなことが、少し腑に落ちる。
(ひろさん)
 大人の男をいいなりに馴らすことは、杷にとって、思いのままにならないその人との関係の、代償行為なのだろう。だから、こうして連れて来られる家庭教師なら、
(誰でも、いいわけだ……)
 わかっていたことを、再確認しただけなのに。どうしてこんなに、胸が重いんだろう。
 食卓に顔をつけて、ソーダを眺めていた杷が、小さく舌を伸ばして、グラスの外側に浮いた汗を、舐めた。

 くさくさするときは、外の空気を吸うに限る、と。例によって液体オンリーの、顎骨が退化しそうな杷の食事風景を見守ったあとで、夕すずみを兼ねて、外に出てみる。
 とは、言え。徒歩では出水家の敷地内から出ることさえままならぬ状況下、ぐるりと邸の周りを散策したあげく、〈こなっちゃん〉に水やりをするくらいしか、することもない。
 結局いつもと代わりばえもなく、そろそろまた脇芽を摘まなきゃなと考えていると、出かけていた功刀さんが運転手姿で戻ってきて、俺と並んで、〈こなっちゃん〉を鑑賞する。
「こうして見ると、トマトというのも綺麗なものですね」
 穏やかな口調でこう言われると、母親を誉められているようで、悪い気はしない。
「功刀さんは、トマト、お好きですか」
「ええ、好きです」
「じゃあ、良かった。俺がいなくなっても、それほど無駄にはなりませんよね、トマト」
 ほんの軽口のつもりで、言っただけなのだが。功刀さんは珍しく顔色を変えて、ばっと、俺の腕をつかんだ。けっこうな、強さだった。
「――え?」
「何か、ありましたか。杷さまが、また何か」
 何か、と言ったあと、少しためらう。ああ、たぶん、穏当な表現を探しているんだな。
「……おいたを、なさいましたか」
(杷……)
 お前、ものすごい子供みたいに言われてるよ、と思うと。思わず、笑い出してしまう。
「いや、すみません。そういうことじゃなくて。あはは、功刀さん、ほんとにあの子が大事なんですね」
 あ、いえ、と、功刀さんは少し照れたように笑って。つかんでいた俺の腕を見下ろして、これは、失礼しました、と、言った。
「いえ。……だけど、だったらもう少し、厳しくするところもあっていいんじゃないですかね。近くに家族とか、いない環境だし」
 食事とかは、側にいる大人の責任ではないかと、とか、またしても食いものの話をする俺に、功刀さんは少し微笑む。
「そうなんですが。私は、何でも杷さまの望むようにしろと言われておりますので、つい」
 杷さまの望むように。何でも。
「――それは……CEOに?」
「はい。CEOに」
 CEO、という言葉を、少しぎこちなく、功刀さんは口にした。それは、杷の〈ひろさん〉のことだ。――杷の、望むように?
「井上さんには、杷さまも今までになくなついていらっしゃる。できればこのまま、何事もなく続けていただけたら、と、思っておりましたので。――少し、慌てました」
「ええと……ありがとうございます」
 何の気なしにそう答えてから、はっとする。この、「なついて」の、意味は、もしかして。
 〈功刀の部屋って、この、真下だよ〉。
 うわ、意識したら、急に恥ずかしくなってきた。たぶん、俺のこと、相当な、
(淫乱だと……)
「――どうか、しましたか」
「いえ! いえ、あの……ええと。制服、着てらっしゃるの、久しぶりに見たなあ、と」
「ああ――社用で、出ておりましたので」
「やっぱり、功刀さんはその恰好がいいですね。帽子も、すごくお似合いだし」
 功刀さんは、すこしだけ驚いて。それから、ずいぶんと優しく笑った。
「井上さんは、本当にかわいらしい」
 なんだか最近、ずいぶんと可愛いと言われるな、と思っていると。功刀さんは、運転手の制帽を脱いで、俺の頭に、トンと載せた。
「こういうのは、誰にでも似合うようにできているんです」
「――そう、ですか」
「そうです。井上さんも、お似合いですよ」
 そうかな、とその気になって、ガラスにでも映せないかと、邸のほうをふりかえると。パタンと、二階の窓が閉まるのが見えた。
(杷の部屋)
 しまった、運転手さんごっこをしているところを見られたかな、と、赤面して、慌てて脱いだ帽子を、功刀さんに返した。

 そんな日の、夜十時すぎ。
「――すみません。やっぱり、それだけは」
 できません、と、俺は言っている。杷の部屋の、杷のベッドで。
 まさかと思ったが、案の定、杷のベッドには大時代な天蓋がついていた。いや、とりあえず、そんなことはいい。
「なんで?」
(なんでって……)
「それは、だって、それをしたら、もう」
 セックスじゃないですか、という回答を、直前でひっこめる。毎晩してることは違うつもりかと言われたら、返す言葉がない。
「――引き返せない、気がする、というか」
 杷が、早晩それを言い出すだろうことは、予測していた気がする。指や舌で嬲られることに、俺自身が慣れてしまったから。俺が慣れると、杷は、飽きる。そうしたら、もう、この上進む先は、ひとつしかないと。
(わかって、いたんだが)
 わかっていたからといって、はいそうですか、と、言える種類のことでもない。
「だって、オレ、思ったんだけど。オレが先生を可愛がってあげて、先生がイって。そのあとで先生がオレの咥えて、オレがイって、って。こういうの毎日すんの、」
 ――時間のムダじゃない?
 と、わりと真顔で、杷は言う。
「それだったら、もう、直接挿れちゃって、お互い気持ちいいほうが。話ハヤいし、それに多分、先生も」
「いや、あの」
「もっと感じるよ」
 だからよけいにまずいと思うんだ、とは、言えなくて。何かこう、もっと説得力のある言い訳は、ないものだろうか。

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