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□泥中の蓮
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「先生―。っ……先生、なんで、そんなこと言うの」
「み、さと……?」

衝動的に、彼の手を掴む。初めてこんな風に触れた。白くて細い手。ひやりと冷たい。
どれだけこの温度に焦がれていただろう。どれだけ、あなたに触れたかったろう。何もかも、知らないくせに。


「俺、あんたのことが好きだ。ずっと好きだった、四宮先生」

理不尽で八つ当たりじみた感情に押されて、ほとんど投げつけるような荒さで口にしていた。戒めながらも一等大切にしていたもの。
彼の、三郷との綺麗な思い出をも、この隠していた恋慕を突き付けることで汚してしまう。

泣きたいくらいだ、と思う。勿論本気で泣いたりなどしない。その代わりに他の誰にも聞こえない声で「好き」ともう一度繰り返した。
眼鏡の奥で、澄んだ黒い目が見開かれている。その美しい瞳が曇るのも冷えるのも見たくはなくてぎゅっと目を瞑る。


ごめんなさい、先生。なにも言わないで。俺の汚い想いなんて忘れて。嘘だ。本当はその心に俺を刻み付けてほしい。頭の中が散らかって五感がすべてバラバラになってしまったような気がした。

「……三郷」
彼の手を握り続けることもできずに力なく落ちた三郷の手首を、そっと冷たい指先が撫でた。びくりと肩が揺れる。
白い手、彼の、美しい指。閉ざした視界にそれが艶かしく浮かんだ。ここで想いを踏み潰して泥まみれにしたとしても、無駄だと痛感する。自分はそれを掬い上げて汚れごと呑み込んで、ずっとずっと腹の中で大事にするのだ。そういう予感がした。

おかしいくらい愛おしいのだ、その手が、その声が、瞳が、髪が――彼という生き物が。
血が滲みそうなほど唇を噛んで、目を開ける。拒絶される覚悟は、今出来た。拒絶されても消えないだろうモノへの諦めも。強張って、嫌悪と困惑を浮かべているはずの彼の顔を見下ろす。そして、その先の光景が信じられずに三度瞬きを繰り返した。


「先、生?」

最初に認識したのは桜色だった。抜けるように白い、彼の肌が薄く色づいている。彼に流れる血の色が、その頬を染めている。困惑しきりに赤くなっている、一度も見たことが無い表情だ。
動揺しきった無様な声で彼を呼んだ三郷を、長いまつげを伏せていた彼がそっと見上げる。黒水晶に似た瞳が、またゆらりゆらりと揺れている。柳眉を寄せた彼が淡い色の唇を開くのを、三郷は固唾を飲んで見つめた。

「……僕なんて揶揄っても、面白い反応はしてあげられないが」
「揶揄ってなんかない」

拒絶されるのは仕様がないことだけれど、想いを偽りだと思われることは耐え難かった。
語気を強めた三郷の手の指をきゅう、と彼の冷えた手が掴む。彼の表情も行動も、言葉と一致していないように思えて眉を寄せる。そうしながら、そんな可愛いことをしないでくれ、己の中に囲い込んでしまいたくなる、と心中で呟く。


「―……本当に?」
「え?」
「本当に、僕を好きなのか。君が?」

湧きだした唾液を飲み下す。

「三年間、ずっとあんただけが好きだった」
恐る恐る、こちらからも指を絡めると彼はびくりと肩を跳ねさせて、ますます頬を赤くした。
病的に白い肌の名残は無く、たいへん健康的な顔色になっている。その反応はどういう意味なのだ。三郷の中で欠片ほどの大きさもなかった期待感が膨れていく。

冷静な大人は鳴りをひそめ、三郷の前に立つ細身の男は頼りなく、いっそ縋るような目で三郷を見た。

「―僕は、教師失格だ」
「どうして」
「だって、僕は三郷のことが、……好きだったみたいなんだ」
「は―」
「いつも君を探していた、いつも君を目で追っていた。今日だって、君がみんなと一緒にいなかったらわざわざこんなところまで探しに来てしまって。……そんなふうに三郷のことが気にかかるのは、君が僕になついてくれた可愛い生徒だからだと思っていた、のに」

いつも端的に、静かに話す彼が上手く息を継げずにいるような苦し気な話し方で言葉を紡いでいく。喜怒哀楽を仄かにしか浮かべない顔が泣き出しそうに歪んでいる。

「違ったんだ、僕は君が好きだった、君に好きだと言われて嬉しいんだ。生徒に恋情を抱いていたなんて、僕は大人なのに、教師なのに、」
「でも、もう俺はあんたの生徒じゃないよ」

細い体を、夢にまで見た肢体を腕の中に取り込んでいた。彼の纏う常識とか在るべき大人の姿とかいうものを、引きはがしてしまいたかった。感情の高ぶりのせいか、体温が低いはずの彼の身体は発熱したように熱くなっていた。

ああ、彼の体だ。離したくはない、ずっとこのまま抱きしめていたい、何物にも委ねてしまいたくない、まして、彼もこの俺を好きだと言ったのだから。

「ねえ、好きです。好き、――」

先生という記号ではない、彼の名を耳元で呼ぶ。びくりと痩身が強張ったのがよく分かった。彼の混乱と躊躇いと恐怖が触れ合った部分から伝わってくる。三郷の方では、自制心もしおらしさも苦しささえ消えてしまっていた。
剥き出しになった本心が、本能が、全身で彼を請うている。神経も、五感もすべてが彼を求めている気がした。

「俺のものになって。お願い、……俺をたすけて」
毒をしみこませるように囁く。泥の中まで落ちてきてくれと。

「三、郷」

震えた呼びかけと共に、気が遠くなるほどの緩慢さで細い両腕が三郷の背に回った。徐々に、徐々に、三郷が彼を抱きすくめているのと同じくらいに彼の力も強くなっていく。ぞくぞくと血液が歓喜する。

「好きだ―」
吐息をもらすように、彼はそっと言葉にした。


ああ、嗚呼!

捕まえた、と頭の中に言葉がひらめく。更に強くなった抱擁に、彼が小さく呻いたが、構っていられなかった。

捕まえた、手に入れた。なんという僥倖か。この男は俺のものだ、俺の。


「先生、……俺がずっと大事にするからね」
彼の髪に口づけた三郷の顔には恍惚を含んだ笑みが広がっていた。


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